2016年2月13日土曜日

応仁元年九月十八日桃華坊文庫焼亡ス

応仁の乱 (岩波新書 青版 873)



 応仁元年九月十八日(1467年10月25日)、一条兼良邸が赤松勢等の襲撃を受け全焼。和漢数多の書を蔵した桃華坊文庫焼亡す。質・量ともに金沢文庫に数倍すると言われた書籍群、そのほとんどが喪われた。
 とはいえ、ごくごく一部ではあるが、枢要なものは光明峯寺に疎開させてあった。

2016年2月12日金曜日

AIに愛はなくとも

大友克洋、武器よさらば
    大友克洋という元漫画家(元ってつけたくなるよねえ)の短編に、『武器よさらば』という印象的な作品がある。
 未来のとある戦場での、「ゴンク」というロボット兵器、というか今ならドローン兵器とでも形容した方がいいのか、そういう自動兵器との格闘を描いたものだ。(スターウォーズのとは関係ない。たぶん)
 このゴンクは、旧式洗濯機に手足がついたようなデザインながら、大出力の粒子ビームをばんばん放つ凶悪なシロモノだ。
 高度に機械化された一個小隊をたった一台で壊滅させるこの兵器には、確実に高度のAI(人工知能)が搭載されていることだろう。

2016年2月11日木曜日

AIに愛はあるか?

ホーキング、未来を語る (SB文庫)
 ちょっと前のことだが、有名な物理学者のホーキング氏が、「AI(人工知能)をほっといたら、いつか人類を滅ぼしちゃうよ」という、ターミネーターに出てくる未来世界みたいなことを言い出して物議をかもしたことがある。


人工知能で人類は滅亡する? ホーキング博士の警告で議論再燃

2016年2月8日月曜日

古典とは誰もが読まねばと思いつつ読みたがらないものだ(マーク・トウェイン)

 全然本なんか読まない、という人でも実は本を読んでいる。読んでいないのに、その本から影響を受けている。え、なにそれキモい、放射能みたい、とか言われそうだが、それが本の中の本である「古典」と呼ばれるものなのだ。

2016年2月4日木曜日

労働はいつ人を「ブス」にするのか?もしくは望月ミネタロウ『ちいさこべえ』について

ちいさこべえ
 『ちいさこべえ』という興味深いマンガがある。山本周五郎の『ちいさこべ』を元に、時代を現代に移したものだ。描いたのは異能の漫画家、望月ミネタロウである。
 大火事で両親を失った大工の若棟梁の元へ、焼けだされた若い女と孤児数人が転がり込む。可愛げのないクソガキどもの面倒を見つつ、若棟梁は「一人前」になってゆく、という物語である。
 ここにあるのは、「美しい世襲」という一つの「神話」である。実際、「ちいさこべ」とは日本書紀の神話から題材をえている。

2016年2月3日水曜日

「父親」はいつ「ブス」になるのか?

    ちょっと前、娘に「昔の少女マンガってどんなだったの?」ときかれたことがある。その問いに対して「すごいハンサムで頭も良くてスポーツ万能で、日本の学生なのに長髪で金髪で大金持ちの御曹司の男の子が、ドジでバカでこれといったとりえがなんにもない女の子に『そのままの君が好きだよ』とキスしてハッピーエンド、てな感じかな」と答えた。
 それに対して、娘はたった一言感想を口にした。
「それって……クヒオ大佐?」

2016年2月1日月曜日

宝塚を見なくともわかる宝塚が魅力的なワケ

 ネットで出回っているリストで、「ブスの25箇条 宝塚歌劇団 伝説の教え」というのがある。
 内容は以下のようなものである。
 

2016年1月31日日曜日

生まれて初めて遭遇する「書物」が電子書籍だったら

 生まれて初めて遭遇する「書物」、紙の束の中にあるもう一つの世界について、半ば強制的に子供の記憶に残るものは、半ば「悪夢」でもあるだろう。

2016年1月27日水曜日

生まれて初めて遭遇する「書物」またはブルーノ・シュルツについてのさらなる補足として

遭遇Spotkanie(Bruno Schulz,1920)
  生まれて初めて遭遇した「書物」について、はっきりと記憶している人はいるだろうか。おおよその場合、それは親から与えられた絵本の記憶にすり替えられているはずだ。

2016年1月25日月曜日

ただそれを「野蛮」であるということにしてしまう視線について

…………
 現今、天下の男色を談ずるものは、ややもすれば、閩(びん、福建省の町)と広(広東・広西)の地方とを語り草にする。しかし、呉・越から燕・雲に至るまで、この好みを知らないものはないのである。陶穀の『清異録』には、「京師(みやこ)の男子は、自分の体を自ら売りに出し、送り迎えして恬然としている」とのべている。とすれば、この風習が唐宋のころから、すでにあったことが知られよう。いま帝都には小唱があって、もっぱら士大夫の酒席の御用を勤めているが、おそらく官妓が禁じられたので、これを用いざるを得なかったのである。その初めはみな浙江の寧波・紹興の人であったが、近頃では半ばは臨清(山東省)のものである。だから南と北の小唱に分かれているが、群に随い隊を逐うという状態で、佳いものは少ないのである。たまに一人でもいると、風流な士大夫たちなら、力を尽くして招き寄せようとしないものはなく、国じゅうが狂ったようになるのである。……
…………

2016年1月24日日曜日

世界へと投げ込まれたものの見る夢 もしくは勅使川原三郎『青い目の男』について


 上に挙げたのはブラザーズ・クエイの人形アニメーション、『ストリート・オブ・クロコダイル』である。原作は『大鰐通り』と邦題がつけられた、十ページほどの短いものだ。

2016年1月23日土曜日

「ティダック・アダ、アルティニャ(意味はない)」とベネディクト・アンダーソンが言ったわけではないが

 その言語の特徴として、
「いくつかの言語が混ざりあって作られている」
「現代世界の技術用語や思想的抽象概念から、おびただしい数の、そしてほとんどあらゆる分野からの借用からなっている」
「公的な場での演説を全くわからないまま、多少とも感動的に聴いてしまう平均的な国民にとって、その輸入の語彙の部分はほとんど理解しがたいものである」
言葉と権力―
インドネシアの政治文化探求
「もったいまわった言い回しのごった煮であり、諸言語の魔法のような混融状態である」
 ベネディクト・アンダーソン『言葉と権力』にある、インドネシア語についての記述である。
 やや書き換えて冒頭に並べたのは、こうしていきなり突きつけられると、まるで日本語のことを言っているように感じられるからだ。
 そしてこれらは、普段日本人が目を背け、忘れようとしている、鏡の中の映し姿でもある。

2016年1月18日月曜日

国家とは忘れ去ることなりとベネディクト・アンダーソンが言ったわけではないが

定本 想像の共同体―
ナショナリズムの起源と流行
 (社会科学の冒険 2-4)
 昨年(二〇一五年)末、ベネディクト・アンダーソンが死去した。
 愛しの「恋人」インドネシアの地において。
 しかしその「恋人」は、ベネディクト・アンダーソンを十八年もの間突き放していたことがある。
 原因は、「恋人」の「不行跡」についての批判である。

2016年1月15日金曜日

とりあえず『ベルサイユのばら』を読んでおけば良かったのかだろうか?

ベルサイユのばら 全5巻セット
 (集英社文庫(コミック版))
 日本の男女を比較すると、基礎教養という点において、女性の平均は男性の平均を大きく凌駕する。
 なぜかと言うと、男どもがジャンプで『北斗の拳』や『こちら葛飾区亀有公園前派出所 』を読んでいた時、女性達は『あさきゆめみし』で源氏物語に触れ、『ベルサイユのばら』でフランス革命についての知識を仕入れていたからだ。
 こうした「教養」の差が、のちにゴーマニズムなんぞにひっかかるかどうかという品性の差につながった、と考えるのはうがちすぎかもしれないけれど。

2016年1月13日水曜日

音楽とダンスの密接な関係もしくは勅使川原三郎『ダンスソナタ 幻想 シューベルト』について

 あれは確か一九八九年のことだったと思う。フランス革命二百周年とのことで、この極東のおよそ革命とは縁のない島国でも様々なイベントが行われた。あまり目立たない形で。
 その一環というわけだったのだろうが、モーリス・ベジャールの小品集の公演で、ベートーベンの交響曲の一番と七番と八番と九番をちょっとづつ振り付けて踊る、という作品を見た覚えがある。フランス革命が起きた年の一七八九年にひっかけてあるわけだ。ベートーベンはドイツ人だが、革命の同時代人でもある。これは非常に印象的な作品だった。何がどう印象的だったかというと、見ているうちにとても眠たくなったということだ。私だけかと思ったら、周囲の人たちもそうだったらしい。これほど過剰に退屈を経験したことはなかった。そのときふと、「交響曲」というものは、それによって踊ることを拒絶している音楽なのだな、と思った。

2016年1月11日月曜日

小麦といかさま師とフランクフルト学派

Herman Weil
    一八八八年、ヒトラーの生まれる一年前、一人の若いユダヤ系ドイツ人がアルゼンチンを訪れる。
 名をヘルマン・ヴァイルという。彼はそこで初めて、地平線の向うまで続く広大な小麦畑を目にした。生地シュタインスフェルトにおいて、遺産分割でバラバラになった畑しか知らなかった彼に、その光景は深い感動をもたらした。案内したアルゼンチン人は、興奮を隠そうとしない若者に向けて、何かの歴史絵巻を説くかのようにして語った。
「ヘルマン、これが我々の軍隊なのだよ。この麦の穂が。これで我々は戦うのだ」

2016年1月7日木曜日

ブーレーズが同時代に生きていたことを感謝する

 ピエール・ブーレーズが亡くなった。九十歳だった。
 彼に長命を与えてくれた神に、素直に感謝したい。

2016年1月6日水曜日

初春のめでためでたのめでたさで「アベノミクス」とやらをどうすればいいのか書いてみる

アベノミクスの終焉 (岩波新書)
 安倍政権応援団の読売新聞ですら
>「アベノミクス」による経済再生は足踏み状態にある。
と元旦の社説に書いてしまう新年となったわけだけど、日経平均は初っ端からメリメリ下がるわ、サウジとイランはケンツクするわ、北朝鮮は水爆実験するわ、せっかくの初日の出もひっこみそうな勢いだ。



2015年12月27日日曜日

ライ麦畑と関係ないけどなんでそんなにナチスが好きなんだ

 昨日の続きなんだけど、ちょっとライ麦とは関係なくなってる。まとまりなくてすんません。

 ドイツのハイパーインフレというやつは、今もって謎が多い。「ユダヤの陰謀」だとかいうアホもまだ生き残っていたりする。あと、わりと多い勘違いが、「ヒトラーがハイパーインフレを解決したので政権を握ることが出来た」というやつ。これ、ちょっと歴史を調べれば、ぜーんぜん違うことがわかる。だいたいハイパーインフレが解決してマルクが曲がりなりにも大人しくなったとき、ヒトラーはまだオーストリア国籍だったのだ。
 このようにして、しょーもない「実はナチスすげえ」神話ってのは、二一世紀においてもタムシのごとくはびこっていて、けっこうな社会的地位にある人ですら、「ナチスは戦争と虐殺はしたが、経済政策は成功した」と信じていたりする。困ったもんだ。
ウィキペディアの記述
    おそらくその流れなんだろうけど、「レンテンマルク」を構想してハイパーインフレを解決したのは、ヒトラーに協力したヒャマル・シャハトだ、という「伝説」がある。
 ウィキペディアあたりにもそう書いてあって頭が痛いのだが、実際のレンテンマルクの構想者はヘルフェリッヒであり、シャハトはむしろその案に強く反対していたのだ。
 一九二三年十月六日付けの書簡において、シャハトはときの首相シュトレーゼマンに向けてこのように論難している。
「健全通貨はただ金本位通貨のみである。その他の通貨は特に我が国のような経済状況の下では、再び崩壊に向う」
「まだ終りの見えない財政赤字を通貨の発行でカバーすることは財政政策のもっとも重大な誤り」
 などなど。

2015年12月26日土曜日

ライ麦畑でつかまるものは?

 ライ麦というものは、あまり日本人にはなじみがない。気候風土が合わないらしく、昔から作られていないのだ。
 ライ麦というやつは、育つと1メートルから3メートルくらいになるそうで、その畑に人が入り込むと姿が見えなくなってしまう。そこでライ麦畑というのは、ちゅっちゅちゅっちゅする場所、ということになっていたりする。ドリフの「誰かさんとと誰かさんが麦畑」というのはライ麦畑のことで、この歌は元々イギリスの猥歌なのだ。それが名作『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルの元になっている、ということは以前エントリーに書いた。

2015年12月10日木曜日

ストラヴィンスキーのドキュメンタリーを見たらなんとなく長生きできそうな気がしたりした

ストラヴィンスキー:詩編交響曲,
組曲「兵士の物語」自作自演【中古LP】

    まだテレビがチデジカする前、ストラヴィンスキーのドキュメンタリーをやってたのでだらだら見てたことがある。
 かなり昔にカナダのテレビ局が作ったもので、白黒の画像だった。
 画面ではすっかりはげ上がったストラヴィンスキーが、サングラスをかけて指揮棒を振っていた。つい忘れがちだが、彼は優秀な指揮者でもあったのだ。

2015年12月9日水曜日

『ノーベル賞経済学者の大罪』と裸の女王様

ノーベル賞経済学者の大罪
 (ちくま学芸文庫)
『ノーベル賞経済学者の大罪』という刺激的な本がある。中身の小見出しのタイトルもなかなかステキだ。

…………
第1章:お砂場遊びの坊やたち
第2章:統計的有意性はお呼びでない
第3章:黒板経済学の不毛
第4章:社会工学の思い上がり
第5章:新しく謙虚なブルジョアの経済学
補論:経済学の秘められた罪

…………
 ……とまあ、どっかの夕刊紙みたいな見出しが並んでいる。
 が、内容のほうはごく真っ当な現代経済学の入門書で、ちょっとひねくれた人が経済学の裏口から入るのにちょうど良い、そんな感じの本だ。経済学そのものを根底から問い直そう、などというような野心的なものではなく、ほっといたらずいぶん薄汚れてしまったのでお洗濯しましょ、といったところか。

 でも読んでいると、その「お洗濯」から服のほつれややぶれが目につき、経済学というものについてちょっと考え直してみたくなったりもする。
 著者はそれについて、指し示すだけで黙ってる。
「ほら、見れば分かるでしょ」と言いたげに、口を閉ざして微笑んでいる。

2015年12月3日木曜日

突如としてそれまでの「日常」が失われたとしても『あたしンち』はどこまでも日常的であろうとしたこと

来て来てあたしンち
    今さらながら、『あたしンち』というマンガについて、少しばかり書いてみたいと思う。きっと作者はこんな風に生真面目に語られることについて、「やーめーてー」と叫びつつ身をよじって嫌がるんじゃないかと思うが、それでも書いてしまうのがブログであり、インターネットというものなのだ。ネットって広大だね、無駄に。
 で、この現代版サザエさんのように言われるマンガは、サザエさんと同じく新聞を連載の舞台としながら、サザエさんのような社会風刺的なことはほとんどしていない。というか、意図的に避けていたように思われる。
 そんな風刺なんてダサいことをしなくても、社会の諸々の事象はすべて「日常」の中に、噛み砕かれ消化され凝縮されて顕れるのだから、その「日常」を切り取って描き出せば、風刺なんかよりもずっと適確に社会を描くことができる、ということだったんじゃなかろうか。
 そんな「日常」にも、どうにも噛み砕けず消化できないものが現れてしまうことがあるわけで、原発事故などはどうしても触れないではいられなかったようだ。直接的にわかりやすいところで、主人公のみかんが雑誌のインタビューのようなものに応えて、望むのは「原発のない日本?」と言っていたりする。
 しかし、『あたしンち』が連載されているのは、原発維持を社論とする読売新聞である。マンガの内容まで新聞社が口出ししてくるとは思わないが、熱心な読者の中には違和感を覚える人もいるだろう。
 原発事故を無視して「日常」を描けばそれがウソ臭くなり、なんとかエピソードに反映させても、連載される媒体によってウソ臭くされてしまう。そうしたアンビバレンツな状況にあったわけだ。