2018年11月24日土曜日

果たして日本人は「太陽の塔」を越えることができるか?


 先々月、『太陽の塔』というドキュメンタリー映画を観た。
 FBにすら感想を書かなかったのは、妻がうるさいからという訳ではなく、ドキュメンタリーとしてどこかピンボケしたような、とっちらかった印象を受けたからだ。
 一番知りたかったのは、岡本太郎にあのような異様な建造物を作ることを許した、時代の流れに反する「熱」がどこからきたのか、ということだったが、ついにそれは解き明かされなかった。
 謎は謎のままにした方がいい、ということだろうか。

 で、とうとうまた大阪で万博をすることになったわけだが、東京でオリンピックやって大阪で万博とか、平成の次の年号はもう一度昭和に戻っちまうんじゃないか、などと思わされてげんなりしてしまう。この後はオイルショックでも来るのか知らん。
 そして、改めて太陽の塔に想いを馳せると、大きな失望をまとった疑問にぶち当たる。
 果たして、今の日本にあのオブジェを越える「何か」を作り出しうる「熱」があるだろか?、と。
 「太陽の塔」を越えるものを創る芸術家がいるだろうか。
 いたとして、それを誰もが支えられるだろうか。
 予算がつかないとか、作業は全部ボランティアにやらそうぜとか、場所が確保できないとか、子供が見ると泣くとか(実際太陽の塔を見て泣く子はいるらしい)、やっぱガンダムがいいからガンダムで行こうぜガンダムガンダムぅ!とか、鬱陶しいノイズの群れに包まれ、立ち腐れてしまうのじゃなかろうか。

 岡本太郎について再度語るのもしんどいので、昔(もう六年前だ)に書いたエントリーを再録しておこう。映画がイマイチだったんで。

芸術は爆発するものなのだということ

 アレクサンドル・コジェーヴという人がいまして、亡命ロシア人で哲学者でヘーゲルの解釈で有名な人なんですが、この人の著作で『ヘーゲル読解入門』の註にこんなことが書かれています。(国文社版より抜粋)

……能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これにひってきするものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にも関わらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。
……結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。

 なんか頭の中がかゆくなってくるんですが、このスターリニストのおっさん(スターリンが死んだ時『父親が亡くなったような気がした』って言ってたりする)が言ってることが、ソ連が崩壊して『歴史の終り』なんてのがベストセラーになったとき、一部の保守と呼ばれるインテリ層にウケたりしました。(それ以前に各所で浅田彰が批判してたのも逆宣伝になってしまいました)
 コジェーヴが想像したのとは全然違う形ではありますが、日本のマンガやアニメは世界中に受け入れられており、今やCOOL JAPANと呼ばれたりしてるとか何とか。(ってか、日本国内のサイトでしか“COOL JAPAN”なんて見たことないんだけど、どこらへんで言ってんの?)

 しかし、あくまで日本の伝統文化に根ざしながらも、スノビスムとまったく無縁の人もいます。
 そう、「芸術は爆発だ!」の岡本太郎です。
 この人の作品がまぎれもなく「芸術」であるわけは、大衆的人気を博しながらも、エピゴーネンがまっったく出てこない、ということからわかります。もしかすると、私が知らないうちに現れて、私が気づかないうちに消えているかもしれませんが、そんなのは元からいないのと同じです。
 スノビスムというのはあれやこれや定義がありますが、「日本的スノビスム」とくれば、「良質なものを模倣しつつオリジナルよりも良いものを作り上げる」ことにあるわけで、マンガやアニメなんかはそうやって発展してきた「文化」なわけです。
 ところが岡本太郎はそこから逃れている。逃れているだけでなく、今もって有名である。逃れていても無名なら意味ないですから。
 岡本太郎を批判するのはたやすいし、沖縄の写真の件とか問題も多いんですが、日本国内のこの文化状況のただ中にあってスノビスムから逃れおおせている、というのはとてつもなくすごい、まさに「芸術」であると思うわけです。

 さて、そんな岡本太郎ですが、フランス滞在中にコジェーヴのヘーゲルについての公開講義を受けています。
 親交のあったバタイユの影響でしょうか。受講者名簿にtaoo okamotoと記録されているとのことです。
 ファーストネームからrが抜けているのは、舌を転がすようなフランス語のrが上手く発音できなかったのかもしれません。
 もちろん、この講義でコジェーヴが日本のスノビスムについてふれるということはなかったでしょうし、岡本太郎がこの講義をどこまで理解したかもよくわかりません。(著作でふれてますが、ほんとにふれてる程度)
 ただ、この講義は多くの哲学者・思想家に多大な影響を与え、現代哲学を語る上で重要なメルクマールになっていることは確かです。

2018年10月2日火曜日

たまには読書の記録などを

 ふと気づくと映画のことばかり書いているので、ちょっと最近読んだ本のことをメモしておこうと思う。
 仕事(執筆)のために読んだものと漫画をのぞき、九月中に目を通した本を並べてみた。

2018年9月21日金曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪【ららら科学の子の続き編】

Researcher at the center of
an epic fraud remains an enigma
to those who exposed him
    先月のことになるが、日本の医学分野における論文が、目に余るほど捏造が多い、ということについて「サイエンス」誌で取り上げられた。

2018年9月13日木曜日

なんでそんなにゾンビが愛されるのか

    今日、巷で評判の『カメラを止めるな!』を観ました。
 感想としては、「ゾンビがくるりと輪をかいた」というか、「子鹿のゾンビはかわいいな」というか、そんな感じでした。珍しく一家三人で観たんですが、家族で鑑賞するには最適の映画ですね。ぽん!(←せっかくなんでネタバレ)

2018年8月11日土曜日

小津安二郎は本当にラーメンが好きだったか

    若い頃観たものを歳経てから観直すと新たな発見がある。
 それは別な色彩の感動という形をとって現れることもあるが、昔は気にならなかったものが今になってみるとどうも気になる、ということもある。親父になって了見が狭くなり、小姑のような嗅覚が身についた、というだけのことかもしれないが。

2018年8月3日金曜日

子供を作るのってぜんぜん「生産」じゃないんだけどな

 あまりの暑さに脳みそが茹で上がりそうな今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
 うだうだと日々を送るうちに、世間では「生産性」とやらが話題のようで。
 LGBTについては以前触れたので、今回は「生産」について少々。

2018年7月11日水曜日

どうせわたしをだますなら?

お年玉ぽち袋

 初めてもらったお年玉ってどうしたか憶えていますか?
 私は母親に「ママが預かっておいてあげるからね〜」と巻き上げられてしまいました。でもまあ、これはほとんどの人がそうでしょう。ちなみにウチの娘もそうですが、妻がちゃんと口座作って貯金してますな。うむ、えらいぞ。
 お年玉に限らず、親ってのは子供にウソをつくもんです。というか、ウソをつかないと育ててらんない。ウソが家族を作るんですね。
「おー、よしよし」
 良くないし。
「そんなとこでいじけてると、置いてっちゃうよ!」
 置いてかないし。
「痛いの痛いの〜飛んでけ〜〜!」
 飛んでかないし。

2018年7月10日火曜日

高学歴でもオウムにひっかかるのは全然不思議でもなんでもないということについて

 オウム逃亡犯最後の一人が捕まりました。逮捕された写真を見てまず思ったのは、(あ、こいつ、なんか俺に似てる……)
 昔、オウムが騒がしかった頃、新実智光を見てやっぱり(坊主だった頃の俺に似てる)と思ったものでした。大学時代、少林寺拳法部なんぞに入っていたので、学ランに坊主頭だったんです。
 それから行きつけの飲み屋でも、よく「緊急対策本部長」なんて呼ばれました。上祐ですね。なんか「教祖顔」があるんなら、「信者顔」ってのもあるのかもしれません。誤認逮捕されなくて良かった。

2018年7月7日土曜日

オウム真理教の背景としての「日本」

尊師麻原は我が弟子にあらず―
オウム・サリン事件の深層をえぐる
    なんか、平成の終りが見えてきて、慌てて「大掃除」をしているらしい。「オリンピックちゃんが来る前に、お部屋をキレイにしなきゃ!」ということもあるのかな。
 とにかく、長年下駄箱の影でホコリをかぶってどす黒くしなびた幸福の木のように、オウム真理教の面々は「おかたづけ」されてしまった。

2018年6月16日土曜日

「読書」が人を殺すことはあるか

    幼い頃、新幹線が大好きだった。そのスタイリッシュなデザイン、当時「世界一」とされたスピードを、子どもながら誇らしく感じていた。それは、日本の将来を、「豊かさ」を約束しているようでもあった。
 その新幹線で、無差別殺人事件が起きた。
 犯人は無職ではあるが、「読書家」であったという。

2018年6月15日金曜日

余は如何にしてスマホゾンビとなりし乎

    世の中に大きな変革が起きた時、その変化が真に「大きい」かどうか測るには、その変化が起きる前の生活をリアルに思い出せるかどうか、でわかるのではないだろうか。
 スマホがもたらした変革は、そうした意味でかなり「大きい」と言える。
 実際、スマホというものがなかった頃、どのようにしていたのか、断片的には思い出せても、それはリアルな感触を持ったものとして立ち上がってこない。
 自転車に乗れるようになった時、自分が以前どのようにして自転車に「乗れなかったか」、上手く思い出せないことに似ている。

2018年6月1日金曜日

誰がなんと言おうと『菊と刀』は超絶的な名著であるということの続き

The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture
 前回からの続き

 当時はネット環境なんかなかったので、タウンページで件の公的機関の住所と電話番号を調べた。
 出かける前に、念のために確認した。
「とにかく先方に謝るってことでいいんですね?」
 おじいさんは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「うるさい!!生意気なことをぬかすな!!!」

誰がなんと言おうと『菊と刀』は超絶的な名著であるということ

菊と刀―日本文化の型 (現代教養文庫 A 501)


 そのうち書こう、と思って書かないままになっている話がある。
 あまり心地の良い話ではない。
 おまけに、どう書いたらうまく人に伝えられるのかよくわからないし、実は今もわからないままだ。

2018年5月25日金曜日

セクハラという悪夢を封印する「システム」としての「恋愛」と「結婚」

 なんか知らんアメフトの人気が出ているような昨今ではあるが(白々しいなあ)、アメフトといえば数年前に話題になったこんな動画が思い出される。

2018年5月22日火曜日

No to mention, unsportsmanlike, HAHAHAHA!! とレプリカントは笑った

7'25"辺りのセリフ

    タイトルは映画『ブレードランナー』のセリフから。日本語字幕は忘れてしまったが、意味としては「まるっきりフェアじゃないな、ハハハハ!」というところか。ベタに直訳すると「言うまでもなく、スポーツマンらしくない。ハハハハ!」といった感じ。
 そう、「スポーツ」は公正であることの代名詞なのだ。

 スポーツにおける「公正」とはなんだろう。
 やはりお互いにルールを守り、全力を尽くして戦い、勝敗について不服を口にせず、敗者は勝者を称え、勝者は敗者をねぎらう、と。
 競技に優勝劣敗はつきものであり、スポーツはそれを明らかにすることが究極の目標である。その目標がない運動は、ただの遊戯とされる。
 しかし、その「公正」がずーっと昔からそのままの「公正」だったかというと、ちょっと違ってくる。

2018年5月8日火曜日

「それの何が悪いの?」という人には「悪いのはお前の頭だ」と応えたくはあるのだけれど

    人はいつ、自らの「悪」を認識するのだろうか。
 やはりおいたをした時、例えばチャンバラ遊びが過ぎて棚から七宝焼の花瓶を落とし、母親からこれ以上ない不快な金切り声にのせてあらん限りの罵倒を投げつけられた時だろうか。
 その時人は、自分が「悪い」とは思っていなくても、「悪」とは自らの想いを超えた所に基準があるのだと知る。
 しかし、その叱り方があまりにも感情的で論理的で理不尽であった時、人は思考を停止させて、「他人」に見つからなければ何をやっても「悪」とはならない、というニヒリズムを身につける。
 そうした「ガキ」がそのまま大人になって何かやらかすと、平気でこう言い放つのである。
「それの何が悪いの?」

2018年5月6日日曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪【快楽はいつウソになるのか?編】

『ライク・サムワン・イン・ラブ』予告編

 実は私は、結構な泣き虫である。
 しかし、「男は生涯に三度しか泣かないものだ」と祖母(先年百歳で亡くなった)から躾けられたため、涙を我慢するのだけは上手になった。ちなみに「三度」というのは、「右目から涙を流すのはお父さんが死んだ時、左目はお母さんが死んだ時、両目から流すのはキン●マなくした時」とのことである。

2018年4月17日火曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪【科学者は科学的にウソをつけるか?編】

   もはや旧聞に属してしまったが、「STAP細胞」なるものが騒がれたことがあった。
あの日
小保方晴子
「すたっぷさいぼーは、ありまあす!!」と、割烹着で実験するリケ女とかいうねえちゃんが叫んでいたが、結局実験を再現することはできなかった。

2018年3月23日金曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪【正直者が正直にウソをつく編】

  第二次大戦中の
米軍のポスター
「日本人は非常にウソつきである。どのくらいウソつきかというと、彼らが中国で人を雇う時、同胞である日本人は信用ならないので、なるべく中国人を雇おうとするくらいである」

2018年3月15日木曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪

平気で
うそをつく
人たち
「ウソなんかついたことない」と言えば、それはウソだとわかる。
「ウソしか言わないことにしている」と言えば、それはパラドックスだ。
 ウソという、倫理に悖るとされながら、時に社会の潤滑油のように認識されるものについて、あまり深く考察されたことはないように思う。
 今国会ではウソが暴かれて右往左往の有様であることだし、ちょっと「ウソ」というものについてつらつら考えてみたい。

2018年3月8日木曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…はとうとう亀の存在に追いつけなかった編】

 さて続き。日本語のように単語と単語を適当にくっつけない、厳格なドイツ語によって、ハイデガーはどのように「存在」を語ろうとしたのだろうか。