2015年12月3日木曜日

突如としてそれまでの「日常」が失われたとしても『あたしンち』はどこまでも日常的であろうとしたこと

来て来てあたしンち
    今さらながら、『あたしンち』というマンガについて、少しばかり書いてみたいと思う。きっと作者はこんな風に生真面目に語られることについて、「やーめーてー」と叫びつつ身をよじって嫌がるんじゃないかと思うが、それでも書いてしまうのがブログであり、インターネットというものなのだ。ネットって広大だね、無駄に。
 で、この現代版サザエさんのように言われるマンガは、サザエさんと同じく新聞を連載の舞台としながら、サザエさんのような社会風刺的なことはほとんどしていない。というか、意図的に避けていたように思われる。
 そんな風刺なんてダサいことをしなくても、社会の諸々の事象はすべて「日常」の中に、噛み砕かれ消化され凝縮されて顕れるのだから、その「日常」を切り取って描き出せば、風刺なんかよりもずっと適確に社会を描くことができる、ということだったんじゃなかろうか。
 そんな「日常」にも、どうにも噛み砕けず消化できないものが現れてしまうことがあるわけで、原発事故などはどうしても触れないではいられなかったようだ。直接的にわかりやすいところで、主人公のみかんが雑誌のインタビューのようなものに応えて、望むのは「原発のない日本?」と言っていたりする。
 しかし、『あたしンち』が連載されているのは、原発維持を社論とする読売新聞である。マンガの内容まで新聞社が口出ししてくるとは思わないが、熱心な読者の中には違和感を覚える人もいるだろう。
 原発事故を無視して「日常」を描けばそれがウソ臭くなり、なんとかエピソードに反映させても、連載される媒体によってウソ臭くされてしまう。そうしたアンビバレンツな状況にあったわけだ。

 震災から一年後、二〇一二年の三月十一日は、ちょうど日曜日だった。
 読売新聞日曜版に掲載された『あたしンち』は、「とーとつですが」とその日に連載を終了してしまった。

 こんにちわんありがとうさぎがぽぽぽ〜んとテレビで繰り返し流された日々から、それ以前の諸々の事柄はどこかウソ臭くなり、いろいろなものがゼンマイの切れたおもちゃのように、その動きをゆっくりと時間をかけて止めた。「笑っていいとも」終了なんかもそんな感じだったように思う。
 それは、もうみんなあの日から以前のことは忘れよう、と誰もが無言のうちに決意して、そのことが軽石に油をかけるような感じで、じんわりと社会全体に染み通っていった、ということのように思える。

あたしンち 21
 だが、それでも「日常」は続く。
 最終回で「とーとつ」に空を飛ぶおかあさんは、その非「日常」的な力で「日常」のお買い物をしてきたりするのだった。

 
あたしンち コミック 全21巻完結セット
 
 ちなみにその日の読売新聞の社説は「想定外を想定し直す」とか、無茶なこと言っていて目が点になる。
http://shasetsu.seesaa.net/article/256990398.html

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