2016年2月8日月曜日

古典とは誰もが読まねばと思いつつ読みたがらないものだ(マーク・トウェイン)

 全然本なんか読まない、という人でも実は本を読んでいる。読んでいないのに、その本から影響を受けている。え、なにそれキモい、放射能みたい、とか言われそうだが、それが本の中の本である「古典」と呼ばれるものなのだ。

What book that you have NOT read has most influenced and shaped your life?
エコノミストの昼ごはん――
コーエン教授のグルメ経済学
…という、これは著名経済学者タイラー・コーエンのブログ・エントリーなんだが、「読んでないのに最も影響を受けた本て何?」というものだ。
 コーエン教授は、「聖書とかコーランって答えが無難かな。『我が闘争』とかちょろっとしか読んでないし、それは質問の意図と違うと思う。一番はママが読んでた『スポック博士の育児書』かな?」(例によって超訳)みたいなことを言ってる。
 コメント欄で挙げられてるタイトルは、ニュートンの『プリンシピア』だとか、フォン・ノイマンの『ゲームの理論と経済行動』、マルクス『資本論』、ダーウィン『種の起原』などなど。
    おそらくは、誰もがどこかでタイトルくらいは聞いたことがあって、なんとなく中身のことは知っているので、読まないでそのまんまになっていると思う。
「古典とは誰もが読まねばと思いつつ読みたがらないものだ」
“A classic is something that everybody wants to have read and nobody wants to read.”
 と言ったのはマーク・トウェインだそうだ。一九二〇年十一月二〇日、ニューヨークでの講演でのことである。 他にも『Pudd'nhead Wilson(まぬけのウィルソン)』の中で「古典:人々が望みつつ読まない本 Classic: a book which people praise and don't read.」と定義している。まさか自分の書いた本が後々「古典」と呼ばれるようになるとは思いもしなかっただろうし、自分の本が「古典」と呼ばれるようになるのは不本意だっただろう。だって、「古典」って売れないし、庶民からは嫌われてるし。

 古典はどのようなときに読まれるか?
 夏休みの宿題で感想文を書く時?
 病床に持ってきた本がどれもこれもくだらなく感じられた時?
 それとも獄中とか?
 いやいや、端的に読んでないと気持ち悪くなった時、読むべきものだ。だって、読んでなくても「古典」は社会に影響を及ぼしてやまないのだから、社会の中で生きる人々は「古典」を読むように迫られているのだ。社会というものは、「読んでないのに影響を受けてる人々」によって構成されている。社会がはらむ謎を解きたくなったら、「古典」の中にそのカギを探さなくちゃならない。
 そして、実際に読んでみて気づくのだ。
『プリンシピア』って、なんでこんなに無駄に難しいの?
 フォン・ノイマンの『ゲーム』って、ありがちなことからここまで演繹できるもんなの?
 マルクスの『資本論』って、別にプロレタリアを賞讃してないじゃん。
 ダーウィンの『種の起原』は、人間がサルから進化したなんて言ってないよね。
 などなど。
 そうすることによって、社会に生きる人々がどのくらい読まずに読んでいるのかがわかり、逆にそんな社会を「読む」ことができるようになるのだ。
 そうした力を持つ書物が「古典」と呼ばれるわけで、いわゆる魔法書なんてのは「古典」のことなのだなあ、とわかるわけである。



 ちなみに私はここに挙げたものは全部読んでいる(ドヤ顔

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