2015年12月9日水曜日

『ノーベル賞経済学者の大罪』と裸の女王様

ノーベル賞経済学者の大罪
 (ちくま学芸文庫)
ノーベル賞経済学者の大罪』という刺激的な本がある。中身の小見出しのタイトルもなかなかステキだ。

…………
第1章:お砂場遊びの坊やたち
第2章:統計的有意性はお呼びでない
第3章:黒板経済学の不毛
第4章:社会工学の思い上がり
第5章:新しく謙虚なブルジョアの経済学
補論:経済学の秘められた罪

…………
 ……とまあ、どっかの夕刊紙みたいな見出しが並んでいる。
 が、内容のほうはごく真っ当な現代経済学の入門書で、ちょっとひねくれた人が経済学の裏口から入るのにちょうど良い、そんな感じの本だ。経済学そのものを根底から問い直そう、などというような野心的なものではなく、ほっといたらずいぶん薄汚れてしまったのでお洗濯しましょ、といったところか。

 でも読んでいると、その「お洗濯」から服のほつれややぶれが目につき、経済学というものについてちょっと考え直してみたくなったりもする。
 著者はそれについて、指し示すだけで黙ってる。
「ほら、見れば分かるでしょ」と言いたげに、口を閉ざして微笑んでいる。
 それが何なのか、自分なりに分かりやすく書いてみると、経済学は「ゼロ」というものを上手く認識できないってことだ。
「ゼロ」というのは統計上の“0”で、ほとんどの場合プラスからマイナスへ、もしくはマイナスからプラスへと移行する「通過点」ということだ。プラスやマイナスはきちんと把握できるのだが、どちらでもない宙ぶらりんな状態になると、とたんに寡黙になってしまう。そして統計上も、妙な「ブレ」が大きくなってくる。
 
 たとえばついこないだ、GDPの成長率が速報値でマイナスだったのに、いきなりプラスに上ぶれした。
 やったあばんざい、さすがアベノミクス、やっぱり日本経済は日本一だね、と喜んでいる人たちに水をぶっかけるようで申し訳ないんだけど、マイナスだといわれていたものがちょっと数値が改善しただけで突然1%成長に跳ね上がるってのは、日本の潜在成長率が限りなくゼロに近づいてる証拠なんだよね。むしろそのまんまマイナスでリセッションだった方が、まだわかりやすいくらいで。
 このように、経済統計ってのは“ゼロ”に弱い。
 ゼロという「宙ぶらりん」な状態は、経済学者はあまり考えたがらない。どっちともとれないような中途半端な状況に対して、あまり有効なことが言えなくってしまうのだ。

 「そんな宙ぶらりんな状態なんか、そんなにあるわけじゃないんだから、経済学が無視するのは当然じゃないか」という考え方もないわけではないんだが、「宙ぶらりん」でありつつ無視できない存在、ってものがすごくわかりやすい形で存在したりする。
 それは「経済学者」自身だ。

 なので、「経済学者の経済学」もしくは「経済学の経済学」というものは存在できない。
 もっと具体的に分かりやすい例で言おう。
 とある地方に小さな大学があると仮定する。ちなみに経済学は「〜だと仮定する」が大好きだ。
 その大学には経済学部がある。
 そしてその大学は大赤字だとする。
 さて、その時、経済学部の経済学者たちはどのようにすれば良いだろうか?
 大学の運営に口を挿むだろうか?
 もし、その大学の経済学部が無名の教授たちは授業に熱心でなく、しかも論文も大して書いてない、としたらどうだろう。
 経済学的に考えて、その大学から経済学部をなくした方が良い、という判断を経済学者はするだろうか?
 この例だと、「経済学と経営学をごっちゃにしてる」と思われるかもしれない。
 ではこれならどうだろう。
 日本の経済学はノーベル賞を一人も出していない。
 しかし、アメリカの経済学者は何十人も受賞している。(上掲の本にある通り)
 じゃあ、日本の経済学なんか全部なくして、経済学はアメリカに全面的におまかせしてしまった方が、より「経済的」なんじゃないの?
 ……なーんてなことを経済学者は言ったりはしない。
 でも、会社経営や国家経済については、類似したことをどんどん申し立てるよねえ。

 経済学は「社会科学の女王」を自認している。
 この本にも「経済学は真に社会科学の女王なのだ」と書かれていたりする。
 しかし、その女王様は鏡を持っていないのだ。
 だって鏡なんか覗いたら、「おまえは一番じゃない」って言われちゃいそうだからね。

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