2016年1月13日水曜日

音楽とダンスの密接な関係もしくは勅使川原三郎『ダンスソナタ 幻想 シューベルト』について

 あれは確か一九八九年のことだったと思う。フランス革命二百周年とのことで、この極東のおよそ革命とは縁のない島国でも様々なイベントが行われた。あまり目立たない形で。
 その一環というわけだったのだろうが、モーリス・ベジャールの小品集の公演で、ベートーベンの交響曲の一番と七番と八番と九番をちょっとづつ振り付けて踊る、という作品を見た覚えがある。フランス革命が起きた年の一七八九年にひっかけてあるわけだ。ベートーベンはドイツ人だが、革命の同時代人でもある。これは非常に印象的な作品だった。何がどう印象的だったかというと、見ているうちにとても眠たくなったということだ。私だけかと思ったら、周囲の人たちもそうだったらしい。これほど過剰に退屈を経験したことはなかった。そのときふと、「交響曲」というものは、それによって踊ることを拒絶している音楽なのだな、と思った。

ダンスと音楽は密接な関係にある。
 どちらが先に生まれたというのでもなく、それらが誕生した時にはすでに両方が存在していたのだろう。
 しかし、近代というものが近づくにつれ、音楽は「クラシック」という分野においてダンスから離れ始める。中でも「交響曲」と名づけられたものは、純粋に音楽を聴くためだけに作られており、それに合わせて踊るなどということはまったく考えられていないどころか、むしろそれを積極的に排除しようとしている。
 反対に、ダンスは音楽を常に必要としている。一〇年ほど前ニューヨークで音楽無しのモダン・バレエの公演があったが、これは直前になって著作権者が使用を禁じたためなされたことである。
 しかし、ダンスは音楽を必要とするだけでなく、ありとあらゆる「音」を貪欲に取り込み、それによって踊ろうとしている。
 それによって踊るということを想定しないだけでなく、むしろ積極的に拒絶しているかのような音楽をも使って。
 それは一度手放したものをもう一度手に入れる、ということだ。
 フロイトによれば、人間はむしろそうすることによってこそ、根元的な「喜び」を手に入れることができるのだ。


    一昨日(一月十一日)に見た勅使川原三郎と佐東利穂子の公演は、シューベルトのソナタにのって踊る、というものだった。
 演奏はリヒテルによるものである。
 シューベルトはもちろん、リヒテルも、その音楽合わせて踊るということは、微塵も考えていなかっただろう。
 そして、この公演の特筆すべきは、見ているうちに眠気が覚めてくる、ということだった。
 かつて切り離されたものが、またもう一度出会うということについて、非常な喜びを与えてくれた。

 なお、モーリス・ベジャールの名誉のために申し上げておくと、それからのちに作られた、ベートーベンの九番への振付は、かつての退屈な体験をぬぐいさってあまりあるものだった。

ベートーヴェン : 「第九交響曲」 / モーリス・ベジャール 振付 (The Ninth Symphony by Maurice Bejart) [DVD] [輸入盤] [日本語帯・解説付]

1789 et nous(Bejart)
(これはまた別の作品)

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