ちいさこべえ |
大火事で両親を失った大工の若棟梁の元へ、焼けだされた若い女と孤児数人が転がり込む。可愛げのないクソガキどもの面倒を見つつ、若棟梁は「一人前」になってゆく、という物語である。
ここにあるのは、「美しい世襲」という一つの「神話」である。実際、「ちいさこべ」とは日本書紀の神話から題材をえている。
主人公の職業は昔気質の「大工」だ。ここにおいて、大工は立派に「仕事」となっている。
では、大工は「労働」ではないのだろうか?そんなことはない。
マンガの中にも大工を「労働」として働く、半人前以下の見習いが登場する。その男と他の職人を隔てるものは、時代を超えて職能を受け継ぐ姿勢があるかどうか、だけである。
時代をこえて何かを受け継ぐとき、人はそこに「美」を見出そうとしたがる。それが大工の「技」であっても、果たしえぬ父の夢(例『巨人の星』)であっても、使い切れないほどの財産であっても(例『俺の空』)、国家を動かす権力であっても。
だから人々はなんだかんだいって「世襲」が大好きだ。
世代を超えて受け継ぐものがあれば、それが財産であれ夢であれ才能であれ、「労働」を美しいものに変えてくれる。
じゃあ、そういうものが何にもなかったら?
ちょっと話を変えよう。「世襲」というものは、普通父から息子へとなされる。それが「父権」というものの元となっている。
昔は「世襲」によって受け継ぐべきものがあった。財産だけでなく、「イエ」というものや、その「名」である。
しかし、近代化が進み資本主義が広まるに従って、財産以外はほぼ無価値となった。そうした傾向は昭和八年頃から顕著になるのだが、ここでは歴史的経緯については脇に置いておこう。
なのに、「父権」だけはそのままだった。
「父親」はただ「父親」だというだけで家の中で偉そうにし、またそれが許された。
その状況は敗戦によって「父親」の価値が暴落した後も変わらず継続され、なんとなく「父親」(とその予備軍としての「息子」)は家の中で偉そうにできた。
受け継ぐべきものが何もないのに。
空虚になった「父権」の本来あるべき「美」に照らされ、労働する「父親」はどんどん「ブス」になっていく。
それは「労働」を「仕事」と言い換えたくらいでごまかしきれず、かえって傷口を広げた、ということに起因する。
ここで近代的自我というやつが確立されていれば良かったが、高度経済成長の中でうやむやにしたまま現在に至ってしまった。
なので日本の「父親」は、「労働者」としての権利を主張してデモをしたりすることに、何となく「恥」を覚えるようになったわけである。
こうしたねじれは、世襲の政治家への熱狂的な支持などにも見て取ることができる。
望月ミネタロウがこのマンガから見えてくるのは、「近代」というものを受けとり損なった日本であり、その陰画としての「父親」である。それは脇役の信用金庫の店長として登場しているが、あまりにへんてこでわかりづらいかもしれない。
そして、マンガの中のリアルに可愛げのないクソガキどもこそは、現代の日本社会そのものなのだ。
ちいさこべ (新潮文庫) |
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