以前、『アクト・オブ・キリング』というドキュメンタリー映画を見て、その感想をエントリーにした。この映画について、『ゆきゆきて、神軍』等で知られた原一男が批判を述べている。
原一男氏「アクト・オブ・キリングの監督はアホ」
>続けて原監督は、過去に対談したことのある2人のドキュメンタリー監督をあげて「マイケル・ムーアなんてただの典型的なアメリカ人で、アホとちゃうかと思った。それに比べたら、『アクト・オブ・キリング』の監督は知性的だろうと思ってたんですが、対談してみたら、そのジョシュア・オッペンハイマーも典型的なアメリカ人。そういう視点から見ると、『アクト・オブ・キリング』は大ヒットして皆も傑作だ傑作だと言っているようですが、大した映画じゃないんですよ。アメリカ人であるがゆえに、あのような発想が出る。観客が圧倒されるのは、虐殺の数の多さ、現実の世界の中で虐殺した側が英雄視されているというおぞましさで、作品の凄さじゃないでしょう」と原節を炸裂させ、会場を笑いの渦に包んだ。最後に「マイケル・ムーアともオッペンハイマーとも、もう話さなくていい。でもワン・ビンとならまた話してもいいなぁ。彼は実に気持ちのよい男でした」と締めくくった。
ずいぶんざっくりした感想だが、原一男健在なりといったところか。本来なら批判とも言えない批判だが、きちんとポイントを外さず話しているところは流石と言えよう。
ポイントとは、「アメリカ」である。
こうした視線に出会うと、いつも思い出すのは江藤淳の『成熟と喪失』(あの上野千鶴子が読んで涙したという)であり、そこで論じられている小島信夫の小説『抱擁家族』である。
この小説の主人公は、妻がアメリカ兵と不倫していることをつきとめ、若いアメリカ兵に対してその責任を問う。それに対し、アメリカ兵はこのように答える。
…………
「責任?誰に責任を感じるのですか。ぼくは自分の両親と国家に対して責任を感じているだけなんだ」
…………
江藤淳はここにだけ唐突に現れる「国家」という一語について、非常に重要だと指摘している。
小説の主人公は英文学者で、米兵とは英語で会話していることになっている。それならば、米兵は「国家」をStatesと発音したはずだ。
何を当たり前のことをエラそうに、と思われるかもしれないが、原一男が「典型的なアメリカ人」(もしくはそれを賛仰してやまない人たち)を「アホ」呼ばわりする理由がここにあるのだ。
「国」の英語として、country、nation、stateの三つがある。countryは故郷や国土の意味が強く、nationはその土地ににnativeに存在する国家、stateは人民によって構成される主権国家のニュアンスが強い。例えばイギリスの正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国United Kingdom Great Britain and Northern Irelandであり、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つのnationが集まって一つのstateを成している。そのようなstateが複数形のstatesとなれば、それはすなわちUnited Statesであり、「アメリカ」を指すのだ。
逆に、どこをどうひねろうとアメリカはnationたりえない。移民の国であり、土地はと言えばインディアン(仮)から掠奪したものだ。感謝祭Thanksgiving Dayに七面鳥を何羽殺そうが、それは揺るぎないものである。故にアメリカ人はnationを飛び越して国家を形成しなくてはならなず、Statesの一員であることが即ちnationを超越しうる、かのように振る舞う必要にかられる。自然の洞穴に暮らすアナグマよりも、常にダムを補修するビーバーを上位と見るようにして。
最近オバマが否定したけど、まだまだ根強いアメリカの例外主義exceptionalismは、こうしたところから来ている。
アメリカ人のそうしたStatesの一員としての上から目線を指して、原一男は「アホ」というわけだ。
ソ連が崩壊し、凌駕すべき「敵」を失ったとき、アメリカはその次の標的を「ナショナリズム」に定めた。(現在、その標的はイスラムに移りつつあるようだが)
そうしたとき、「ナショナリズム」について多くの人が当然知っているべきことについて、ほとんど研究されていないことがわかった。ナショナリズムなぞは犬の糞も同然で、わざわざ研究する物好きがいなかったのだ。
そこで一人の学者と、その著書にスポットライトが当たった。
『アクト・オブ・キリング』の題材となったインドネシアに「恋した」男、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』である。
この小説の主人公は、妻がアメリカ兵と不倫していることをつきとめ、若いアメリカ兵に対してその責任を問う。それに対し、アメリカ兵はこのように答える。
…………
「責任?誰に責任を感じるのですか。ぼくは自分の両親と国家に対して責任を感じているだけなんだ」
…………
江藤淳はここにだけ唐突に現れる「国家」という一語について、非常に重要だと指摘している。
小説の主人公は英文学者で、米兵とは英語で会話していることになっている。それならば、米兵は「国家」をStatesと発音したはずだ。
何を当たり前のことをエラそうに、と思われるかもしれないが、原一男が「典型的なアメリカ人」(もしくはそれを賛仰してやまない人たち)を「アホ」呼ばわりする理由がここにあるのだ。
「国」の英語として、country、nation、stateの三つがある。countryは故郷や国土の意味が強く、nationはその土地ににnativeに存在する国家、stateは人民によって構成される主権国家のニュアンスが強い。例えばイギリスの正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国United Kingdom Great Britain and Northern Irelandであり、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つのnationが集まって一つのstateを成している。そのようなstateが複数形のstatesとなれば、それはすなわちUnited Statesであり、「アメリカ」を指すのだ。
逆に、どこをどうひねろうとアメリカはnationたりえない。移民の国であり、土地はと言えばインディアン(仮)から掠奪したものだ。感謝祭Thanksgiving Dayに七面鳥を何羽殺そうが、それは揺るぎないものである。故にアメリカ人はnationを飛び越して国家を形成しなくてはならなず、Statesの一員であることが即ちnationを超越しうる、かのように振る舞う必要にかられる。自然の洞穴に暮らすアナグマよりも、常にダムを補修するビーバーを上位と見るようにして。
最近オバマが否定したけど、まだまだ根強いアメリカの例外主義exceptionalismは、こうしたところから来ている。
アメリカ人のそうしたStatesの一員としての上から目線を指して、原一男は「アホ」というわけだ。
ソ連が崩壊し、凌駕すべき「敵」を失ったとき、アメリカはその次の標的を「ナショナリズム」に定めた。(現在、その標的はイスラムに移りつつあるようだが)
そうしたとき、「ナショナリズム」について多くの人が当然知っているべきことについて、ほとんど研究されていないことがわかった。ナショナリズムなぞは犬の糞も同然で、わざわざ研究する物好きがいなかったのだ。
そこで一人の学者と、その著書にスポットライトが当たった。
『アクト・オブ・キリング』の題材となったインドネシアに「恋した」男、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』である。
定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4) |
0 件のコメント:
コメントを投稿