Herman Weil |
名をヘルマン・ヴァイルという。彼はそこで初めて、地平線の向うまで続く広大な小麦畑を目にした。生地シュタインスフェルトにおいて、遺産分割でバラバラになった畑しか知らなかった彼に、その光景は深い感動をもたらした。案内したアルゼンチン人は、興奮を隠そうとしない若者に向けて、何かの歴史絵巻を説くかのようにして語った。
「ヘルマン、これが我々の軍隊なのだよ。この麦の穂が。これで我々は戦うのだ」
まるで映画のファースト・シーンのようなエピソードだ。
この時、アルゼンチンは金本位制を採用し、世界経済に打って出ていた。(そうしたことは以前「背中合わせのタンゴ」とその「つづき」のエントリーで触れた)
ヘルマン・ヴァイルは、アルゼンチンに拠点を置く穀物商となり、巨万の富を築いた。
やがて、第一次世界大戦が起きた。
ヘルマンは積極的に小麦をドイツへと売った。この世界大戦はアルゼンチン経済を大いに潤し、ヘルマンもまた富をさらに積み重ねた。
しかし、ヘルマンはただ儲けるばかりでなく、愛国者として、海軍軍令部の顧問として、積極的に政府に「助言」した。ルーデンドルフにも、モルトケにも、ヴィルヘルム二世にも。報告書の中で彼は独自の情勢分析を展開してみせた。
「英仏の協商側は穀物供給が不十分なため、早晩崩壊するだろう」
はずれ。
「イギリスは六週間すら持ちこたえられないだろう」
はずれ。
「それ以外の協商諸国すらも、食料品の逼迫によって数ヶ月以内に革命が起きるだろう」
まったくはずれ。
当時帝国総理府上奏顧問官だったクルト・リーツラーは、
Kurt Riezler |
一次大戦が終ると、ドイツはハイパーインフレに襲われた。
しかし、アルゼンチンに拠点を持ち、穀物を主に扱っていたヘルマン・ヴァイルはほとんど痛手を受けなかった。
Walter Benjamin |
そのベンヤミン家の息子がヴァルター・ベンヤミンである。
Felix Weil |
彼は父親に「反ユダヤ主義を分析する研究所を作りたい」と言って金を出させ、マルクス主義についての専門的研究機関を設立する。彼はそれをただ「社会研究所」と呼んだ。
社会研究所 |
初代所長であり、フェリックスの友人でもあるマックス・ホルクハイマー、そしてテオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ 、などなど。彼らの多くは、富裕なユダヤ人の子弟であった。そんなところへ、落魄したベンヤミンも深いつながりを持つようになる。さらに、ヘルマン・ヴァイルを「いかさま師」と呼んだクルト・リーツラーは、フランクフルト大学理事長として、この研究所のもっとも好意的な協力者となった。
さてさて、かくしてフランクフルトは、かつてマックス・ヴェーバーをいただいたハイデルベルクを追い越して、社会学の中心地となっていった。
このようなことになったのも、元を質せば大戦後に帰国したヘルマン・ヴァイルが、フランクフルトにその居を定めたことに由来する。
ヘルマンがフランクフルトにやってきたのは偶然ではない。
それは彼が梅毒にかかっていたからだ。
当時梅毒の特効薬とされたサルバルサンを発明したパウル・エーリッヒが、フランクフルトに研究拠点を置いていたのである。
なお、この「社会研究所」の面々が「フランクフルト学派」と呼ばれるようになるのは、彼らがナチスに追い出され、アメリカに渡ってからのことである。
フランクフルト学派 - ホルクハイマー、アドルノから 21世紀の「批判理論」へ (中公新書) |
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