2016年2月1日月曜日

宝塚を見なくともわかる宝塚が魅力的なワケ

 ネットで出回っているリストで、「ブスの25箇条 宝塚歌劇団 伝説の教え」というのがある。
 内容は以下のようなものである。
 


 これを見た人はどのような感想を持つだろうか。「ひゃっひゃっひゃ、その通りその通り!」と下品に笑って手を叩くだろうか。それとも「こんな風に言うなんてひどい。だいたいこれって、男にも当てはまるじゃん!!」と口を尖らせて憤るだろうか。

 このリストのキモは「宝塚の」とされているところにある。
 つまり、このリストが本物だろうが誰かが作ったものだろうが、「宝塚」と付されているだけでみんなが「なるほどなあ」と納得してしまうわけで、「宝塚」というところはいかにもこういうことを言いそうだ、と世間でイメージされているわけだ。

 で、このリストにあるような人物について、読んだ人はなんとなく思い当たるところがあると思う。全部でなくとも、七、八割くらい当てはまるような人だ。
 それは……

「父親」

 だよね。
 清志郎の歌の中で光ってる「お父さん」じゃなくて、リアルで家の中に居座っていて、滅多に笑わず、常にイラついていて、ちょっとしたことで怒り、口を開けばお説教、それに少しでも言い返すと「誰に食わしてもらってると思ってんだ」とかわめく。そのくせ変にナルシストで、男の哀愁とやらの実在を信じ、自分には背中で語る特殊能力があると自負している。
 つまり、「宝塚」が本当に排除したいのは、ブスじゃなくて「父親」なのだ。
 少なくとも世間は無意識の中でそう受け止めていて、大勢のファンたちは「父親」のいない劇場空間へと詰めかける。
 このリストは、「宝塚」というものが「父親」を排除する場所であり、であるがゆえに数多の女性たちから支持を得ている、ということを明らかにしている。
 ここにあるのは

「父親は醜悪である」

 という一片の真理である。
 女の子たちは、ブスな「父親」が大嫌いなのだ。
 
 とまあいうわけだが、かくいう私は「宝塚」へ足を運んだこともなく、また現実に一児の父親でもあったりする。
 もし将来、宝塚歌劇団が無くなることがあるとすれば、それは日本の社会から「父親」というものが消え去ったときだろうな、と思う。

 次回に続く。

宝塚式「ブスの25箇条」に学ぶ「美人」養成講座 (講談社+α文庫)

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