2016年3月30日水曜日

特攻という名の非日本的行動

日本刀と無敵魂
    昨日に続き、また『日本刀と無敵魂』から。
 この本に「片途(かたみち)戦法」という章がある。飛行機で遠距離の爆撃をする際、航続距離の関係で往復できない場合どうするか、という話だ。
 こうしたことは、日本だけでなく米英も行うが、そのやり方が違う、と書いている。
 まず米英については、
…………
「自分共は敵地を攻撃して、爆弾を落とした。之で自分の任務に対する義務は完了した」
 とてんでに解釈をつけて、それから先の行動は自由意志によって決する。そこで敵地の海に着水しようと、敵飛行場に着陸しようと、それは勝手である。そして手を挙げて降参する、之も自由である。
……………
 と書かれている。そんなことがしょっちゅうあったとも思われないが、まあそうかなという感じもしなくはない。
 次に、日本の場合。

2016年3月29日火曜日

日本刀はキレたか?

梅干と日本刀
―日本人の知恵と
独創の歴史 
(1974年)
 (ノン・ブック)
    確かまだ自分が小学生くらいだった頃、『梅干と日本刀』という本が大ベストセラーになった。
 その当時の日本といえば、高度経済成長からオイルショックの時代へと移り、やっと持ち上げた頭をはたかれたような格好になっていた。
 そんな時、「梅干しすごい。日の丸弁当はとってもエネルギー効率が良い料理!」だとか「日本刀すごい。名刀政宗を分析したらモリブデンが含まれていたので、それがタイガー戦車の装甲にも応用された!」とか、まあなんか読むだけでなんとなく気持ちが上向くような、そんなリポビタンDでファイト一発な内容だった。

2016年3月28日月曜日

好きじゃできず嫌いじゃできず中途半端じゃなおできず

当世大学生気質 』という本が大正十五年に出ている。発行元は未来社で、帝国大学新聞社編となっている。
 その中に、『古本の巻』という一章が立ててあって……

2016年3月27日日曜日

ざ!じゃぱにーず!!!

日本人の英語 (岩波新書)
続・日本人の英語 (岩波新書)



 もう二十年も前のベストセラーだが、今持って少し気になる記述がある。知る限りでは誰も指摘してないようなので、ここでちょっと書いてみようと思う。
 まず引用。続の19ページから。

……………
……それより気になるのは、"The Japanese"という定冠詞の使い方である。定冠詞は、文字通り「決まったもの」を表わすが、この場合、"The Japanese"が、誰に、どういうふうに一つの「決まったもの」にされているのかをよく考えると、このtheの使い方がやや恐ろしく感じられる。

……"The Japanese"という表現には、すべての日本人を、一人残らず、一つのものとして取り上げてかまわない、それぞれ個人の差があると思わなくてよい、という前提がある。これは、日本人もアメリカ人も同じ人間集団という常識があるにもかかわらず、平気で使われる表現であるので、「愚かさによる前提」と言ってもよいであろう。
…………


2016年3月26日土曜日

AIが愛の歌を口ずさむのはいつか

 先日囲碁のAIの超絶ぶりに驚かされたら、お次はその間抜けぶりに驚かされた。

Microsoftの人工知能が「クソフェミニストは地獄で焼かれろ」「ヒトラーは正しかった」など問題発言連発で炎上し活動停止

 なかなか大した「知能」である。
 AIは「学習」に長けているが、「疑う」ことを知らないことに気づいたユーザーが、暇にあかせてロクでもないことばかり吹き込んだらしい。
 知能ばかり高くて人生経験の足らないAIは、まんまと「洗脳」されてしまったようだ。

2016年3月21日月曜日

初版は本当に初版なのかということについてのメモを少し

○奥付を付けるのは江戸時代から。松平定信が出版を管理しやすいように命じた、とされている。(異説有り)

○昔の奥付はいい加減なものがあった。いかにも売れているかのように見せかけるため、初版なのに奥付には再版としたものもあった。

○奥付にも誤植がある。一番有名なのは福武文庫。1996年刊行のものの多くが1999年になっている。今ではどっちやらわからなくなってしまった。今まで見た奥付で一番すごいのは1274年刊、というもの。もちろん1974年が正しい。残念ながらタイトルは忘れた。申し訳ない。

○吉田精一他編『現代詩評釈』の初版は昭和四十三年三月。しかし、昭和四十四年四月初版となっているものも出回っている。五味智英編『萬葉集必携』も初版は昭和四十二年八月のはずが、のにち再版が出た際なぜか初版の日付が四十四年四月十日に変えられた。理由は推測の域を出ないが……

○たとえば昭和三十七年に学士院恩賜賞となった笹淵友一の『文學界とその時代』下巻の奥付は、昭和三十五年三月二十五日初版、三十六年七月一日再版、とされているが、昭和三十五年にこの本は刊行されておらず、この初版は存在しない。
 学士院恩賜賞はある程度年数がたって評価の定まった本にのみ与えられるので、このような苦肉の策をとったらしい。上記二冊も似たような事情かと思われる。

2016年3月19日土曜日

誰がアレキサンドリア図書館を燃やしたのか

古代アレクサンドリア図書館
―よみがえる知の宝庫
 (中公新書)

    A.D.641年、当時ビザンチンの支配下にあったエジプトは、イスラムの侵攻を受ける。皇帝へラクリウスが死んだ隙をつかれたのだ。
 その時、かの有名なアレキサンドリア図書館が焼かれ、多くの貴重な文献が喪われた。
 四千の騎兵を従えたアムル・イブン・アル=アスは、「コーランと同じことが書かれている書物はコーランがあれば良いから焼け。コーランに書かれていない書物は邪悪な教えであるから焼け」とすべてを焼くように命令した、とされる。
 この話はシリアの年代記作家バール・ヘブレーウスによって書かれ、永らく事実であると信じられていた。
 しかし、今ではまったくのでっちあげであることがわかっている。

2016年3月18日金曜日

デトロイトがゴーストタウンになりつつあるということを聞いてビンセント・チンのことを思い出した

 デトロイトは今も自動車の街であり、今年だってちゃんとモーターショーが開かれている。
2016 デトロイト・モーターショー
 しかし、その陰で産業の凋落による廃墟化が進んでいる、ということも言われている。
Albert Kahn and the Decline of Detroit
 このような状況は、一体何によってもたらされたのか。


 デトロイトと聞いて、音楽について思い出す人と自動車産業について思い出す人と、二通りあると思う。
 デトロイト・サウンド(モータウンだっけ)はあまり聞かないから話せることはないけど、自動車産業については一つイヤな話がある。
 1982年、デトロイトの路上で一人の中国系青年が殺された。
 金属バットで頭蓋を割られていたという。
 目撃者もあり、犯人はすぐに捕まった。地元の工場で働いていた元自動車工の親子だった。親子は工場をレイオフされたばかりだった。

2016年3月17日木曜日

小沢昭一が亡くなってまたひとつ昭和が遠くなったけど「それでいいんだよ」と小沢昭一的こころで言いそうに思う

ドキュメント 綾さん
―小沢昭一が敬愛する
接客のプロ 
(新潮文庫)
    昔々その昔、ソープランドはトルコ風呂と呼ばれていた。トルコ政府から文句が来て改名することになったわけだが、「ソープランド」と名付けた人は大したいもんだ。トルコ風呂よりしっくりくるネーミングだったので、たちまちのうちに定着した。今じゃ「トルコ風呂」なんて、解説付きじゃないとわかんないくらいになっている。

2016年3月16日水曜日

アインシュタインと暗殺者について

Friedrich Adler - Albert Einstein. 
Physik und Revolution: 
Briefwechsel, Dokumente, 
Stellungnahmen
    アインシュタインは、いわゆる「奇跡の年」の後、ようやくチューリヒ大学に助教授のポストを得た。
 しかし、当時アインシュタインの業績はまだまだ知られるところではなく、本来このポストはフリードリヒ・アドラー(念のため断っておくと、精神分析学者ではない)に与えられるはずだった。
 アドラーは、自分とアインシュタインが候補になっているのを知ると、選考委員にこう進言した。
…………
もしわれわれの大学にアインシュタインのような人物を迎えることが可能なのだとしたら、私を指名するなどナンセンスです。
…………

2016年3月14日月曜日

今日は何の日?アインシュタインの誕生日!

重力波とアインシュタイン
「ついに重力波発見!!」のニュースが飛び交ったのは、先月の二月十一日のことだった。ちと気の早いバレンタインだった。
Einstein's gravitational waves found at last 
http://www.nature.com/news/einstein-s-gravitational-waves-found-at-last-1.19361

 そして本日、ホワイトデーはアインシュタインの誕生日だったりする。

2016年3月13日日曜日

『秋刀魚の味』と少子化

秋刀魚の味
 ニューデジタルリマスター版
    小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』を観た。以前観た時は大学生だったから、実に三十年ぶりである。デジタルリマスターで画面と音がすっきりして、まるで別の映画のようだった。映画が創られたのは私が生まれた年だが、当時すでにとんかつ屋に店員を呼び出すボタンがあることに改めて気づいたりした。(以下ネタバレがあります)

2016年3月12日土曜日

また再び『東京物語』が撮られることはないだろうか

古井由吉、東京物語考 
(同時代ライブラリー)
 先日、娘を連れて小津安二郎の『東京物語』を見た。デジタル・リマスターとやらで、洗ったようにきれいなな画面になっていた。
 この映画についてはいろいろな人がいろいろなことを書いていて、屋上屋を重ねることもないかと思ったが、どうしても書いておきたいような衝動が出てきてしまったので、ちまちまとメモしてみたい。(以下、ネタバレがあります)

2016年3月11日金曜日

人はいつ「わからなく」なるのかわからないということについてあるいは3.11でわからなくなったいろいろなこともしくはららら科学の子

「わからない」というのはどういうことか。
 一口に「わからない」といっても段階がある。
 まず、知らないからわからない。知識が不足していればわからないのは当たり前。
 次に、知識はあるがそれの組み立て方がわからない。
 そしてその上の段階として、わかってるけどわかってない、ということ。さらにまた、「わかってない」というそのことが「わからない」というのもある。

2016年3月10日木曜日

愛読書が思い当たらない

「愛読書はなんですか?」と訊かれると困る。一冊の書物を舐めるように何度も何度も読み返すようなことはしない。人生は短く、書物はあまりに多いのだ。こうしているうちにも本は何冊も何十冊も生み出されている。どーすりゃいーんだー。

2016年3月7日月曜日

クラシックという名づけられた通貨を焼き滅ぼし金貨に変えたアーノンクール

アーノンクール指揮 バッハ:マタイ受難曲

「クラシック」というのは日本では「古典」と訳される。
 それは「素晴らしい」というニュアンスもありながら、古臭いとか退屈とか無駄に偉そうとかお高くとまってるとか、そういう意味あいで語られることも多い。
 クラシックclassicとは、本来「普遍的なもの」「時代を超えるもの」「変わりない価値を持つもの」ということである。
 しかし、音楽におけるクラシックは、戦後その名を聞くだけで毛嫌いする人間が増えた。残念ながらこれは日本だけでなく、世界中の現象のようだった。

2016年3月6日日曜日

原稿を「書く」という行為が先に滅んでゆくのかもしれない

 数年前鬼籍に入った他称「天才」エディター安原顕は、村上春樹と仲違いして、もっていた村上の生原稿を古本屋に売り払ってしまったそうだ。さすがに村上春樹も激怒したそうだが、私は別な感慨を持った。
 (へー、村上春樹って、まだ原稿に書いてたんだ……)
 最近の作家は、特に流行作家である村上春樹などは、パソコンで文章書いてるもんだとばっかり思っていたのだ。
 いまどき、電子データでないと嫌がる編集者も多いしね。データでもらった方が編集作業も早くなるし、なんといってもらくちんだ。

2016年3月5日土曜日

選挙とエコロジーと経済学

 こうみえても投票には毎度毎度行っている。

「劣悪な政治家は、投票しない善良な市民によって支持されている」

…なんてフランクリンさんが脅かすもんで。やーねー。
 しかし一方で、選挙なんてもんにはまーったくぜーんぜんさーっぱり関わろうとしない人もいる。じゃあ、そういう人が社会的によろしくない人かというと、そうでもなかったりする。

 ある日アメリカのとある町の投票所で、二人の経済学者がばったりでくわした。
「よ、よう……」
「お、おう、お前何しにきたの?」
「何って、……いや、なんか、かみさんに無理矢理連れてこられちゃってさあ」
「ああ、そう、そうね。俺も俺も」
「うんやっぱそうだよな」
「そうそう」
「ま、このことはお互いに……」
「そうだね、ないしょってことで……」
「じゃ、そういうことで」
「そういうことで」
 とまあ、こんな具合にぎこちなく別れた。

 なぜ二人はこんなにぎくしゃくしていたのだろううか?

2016年3月3日木曜日

特権的な出会いのためにもしくは鰐川枝里『米とりんご』(振付:勅使河原三郎)の感想を少し

    先月、二月の二二日(ネコの日だそうだが)、いつものようにKARAS APARATUSへダンスを見に行った。
 勅使河原三郎と佐東梨穂子は海外で公演中なので、今回は新進の鰐川枝里である。この人は以前ちらっと舞台で踊ったのが印象に残っていた。バネの利いた踊りで、見るものを引き込んでいく、というタイプのようだ。
 今回、初めてソロの舞台を見た。タイトルの『米とりんご』はどのような意味があるのか、というのは正直よくわからなかったが、ダンスそのものは素晴らしかった。

 まず最初、吹きすさぶ風の音の中で、鰐川枝里がうずくまっていた。やがて童謡がアレンジされたものが流れ、それに合わせて激しく踊り出した。その踊りは、童謡の流れる中いつまでもいつまでも続き、それほどたくましくも見えないダンサーが、途中で倒れやしないかと心配になるほどだった。
 そういえば、子供というものは、いつまでもいつまでも全力で遊んでいるものだ。遊びをせんとや生まれけん、と歌にもある通り、見ているこちらがはらはらするまで遊び続ける。誰もがそうした子供時代を持ちながら、いつの間にか忘れて大人となり、駆けまわる子供にはらはらするようになってしまう。
 やがて音楽が変わり、ゆっくりした「大人」のダンスに変わった。それを見てややホッとしながら、こんなことを思った。
今は亡き戸川純の『夢見る約束』で踊ってくれたらいいのになあ……)