2018年12月12日水曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の黒ノートはどのくらい黒いのか編】



 えー、ちょっと前、ハイデガーについていろいろあれこれ書き連ねたんだけど、そこでは『黒ノート Schwarze Hefte』と呼ばれるものについてはあえて触れなかった。
 理由は、やっぱ、まだちゃんと翻訳が出てなかったから。
現代思想 2018年2月臨時増刊号
 総特集=ハイデガー 
 ―黒ノート
・存在と時間・技術への問い―

   いや、原書買って読むってのも考えないではなかったけど、時間ばっかかかるし、かなり微妙な問題なんで読み違えるとアレかな、と腰が引けたのだ。
 と・こ・ろ・が、電通大(徒歩三分)のハイデガー講座で知ったハイデガー・フォーラム現象学会を覗いてみたら、けっこうこれに関した発表があったりして、やっぱちょっと触れとかないと画竜点睛を欠くかなあ、と思い直した次第。現代思想でも特集されてるしね。

 で、問題は「ユダヤ人差別」である。
 ハイデガーが全集の最後に、としていた黒ノートが先行発売されてみたら、ユダヤ人に対する民族差別がシャレにならない形でバッチリ書かれていた、と。
「やっぱりハイデガーはナチスだ!!」と吹き上がる人もいるわけだが、何を今更な感じだ。当たり前じゃん入党してたんだから。
 それより問題はユダヤ人差別なわけで、ナチスとユダヤ人差別は概ねイコールで結ばれているんだけど、ユダ人差別反対というか、もろに自分がユダヤ人なのにナチスに賛同してたりとか、逆にナチス万歳のくせにユダヤ人差別には反対なやつもいたわけで、ナチスであることについてユダヤ人差別は必ずしも必要にして十分な条件ではないのだ。
 なので、以前書いたエントリーでは、「ハイデガー自身がユダヤ人に対して差別的な思想を持っていたか、については議論の残るところではある」なんて腰の引けたことを書いてしまった。
 で、実際この『黒ノート』を断片的に読んでどう思うかというと、ユダヤ人差別がどうこう以前に、「ひどくがっかりさせられる」んだよね。
 よく問題視されるのが、「世界ユダヤ人組織 Weltjudentum 」という単語をハイデガーが書きつけている、ということ。
 この単語は悪名高い偽書『シオンの議定書』で使用されているもので、これを目にした人は「それ見たことか!ハイデガーはユダヤ人絶滅に賛成だったんだ!」と鬼の首を取ったように騒ぐ。
 で、ハイデガーの弁護をする人は、「ハイデガーはこの単語を別な文脈で使用していて、そのような意図はない」とおっしゃる。
 私はどうかと言えば、ただただ「ひどくがっかり」させられただけである。
 この「がっかり」感、どのように説明すればいいのか、ちょっと難しい。
 深遠な思考をなしているはずの人が、いきなり薄っぺらいことを言い出した、というだけじゃない。
 最近の例だと、元貴乃花が「相撲の語源はヘブライ語のシュモー」とか妄言してくださって目が点になったが、これが一番近い感じかな。ユダヤとも関係してるし。
 とにかく、文脈が同じだろうが違ってようが、ハイデガーともあろうお方が「世界ユダヤ人組織」なんて中二病臭い単語を使うとかねえ、あたしゃもう呆れかえってものが言えないよ(ちびまる子ちゃんの声で)。

 だけど、こういうのって、ハイデガーだけじゃないんだよね。
『黒ノート』ってのは哲学だけでなく、ハイデガーが現在の社会状況について考察したものが含まれていて、全三四冊のうち第一グループ十四冊が「考察 Überlegungen」,第二グループの九冊が「注記 Anmerkungen」とされている。
 で、哲学者のよくある弊として、現在の現状について現実を語ろうとすると、途端に薄っぺらいことを言い出す、てのがある。
 最近の日本でも、原発が壊れたら東なんとかってのが「フクシマ原発をレジャーランドに!」とか言い出したりした。浅田彰だって田中康夫との対談では、ペラッペラに薄いことをくっちゃべってたし、柄谷行人も変なこと言ってたな。
 そういう政治状況だけでなくとも、こと哲学以外について文章書くとつまんないことしか書けなかったりする。ええ、日経に連載された木田元先生のエッセイにはがっかりしましたよ。
 廣松渉みたいな人だって、『哲学小品集』とかあまりにつまらなくて驚愕するし。
 こういう事態に直面すると、「なーんだ、やっぱり哲学なんて、なんの役にも立たないんだな」という声が山のあなたから聞こえてくるような気がする。
 哲学ってのは、もともとそういう「役に立つ」もんじゃないんだから、無理してワイドショーのコメンテーターみたいなことしなくてもいいし、現実の薄っぺらなことを無理矢理深遠な言葉で語って、他と差をつけようとしなくてもいいし、周りもそれを求めないでもらいたいものだけど。

 ハイデガーは志願して兵士となり、戦争に参加したことを誇って人々に自慢したりしたというが、実際は大して役に立たないのであまり戦闘のない部署に回されていたらしい。そういうハイデガーを、本当の激戦区から帰ってきた同僚(ユダヤ系)は憫笑していたそうだ。
 なんか、そういうところから、自らの哲学を「道具的存在 Zurhanden Sein」として役立てようとして、ナチスに入ったりしたのかね。
 ともかく、この先『黒ノート』の翻訳が出たり、その他のスキャンダラスなあれこれが発掘されたりするかもしれないけど、個人的には「あーあ」という感想しか持てそうにないのだ。
ハイデガー哲学は反ユダヤ主義か―「黒ノート」をめぐる討議

2018年11月24日土曜日

果たして日本人は「太陽の塔」を越えることができるか?


 先々月、『太陽の塔』というドキュメンタリー映画を観た。
 FBにすら感想を書かなかったのは、妻がうるさいからという訳ではなく、ドキュメンタリーとしてどこかピンボケしたような、とっちらかった印象を受けたからだ。
 一番知りたかったのは、岡本太郎にあのような異様な建造物を作ることを許した、時代の流れに反する「熱」がどこからきたのか、ということだったが、ついにそれは解き明かされなかった。
 謎は謎のままにした方がいい、ということだろうか。

 で、とうとうまた大阪で万博をすることになったわけだが、東京でオリンピックやって大阪で万博とか、平成の次の年号はもう一度昭和に戻っちまうんじゃないか、などと思わされてげんなりしてしまう。この後はオイルショックでも来るのか知らん。
 そして、改めて太陽の塔に想いを馳せると、大きな失望をまとった疑問にぶち当たる。
 果たして、今の日本にあのオブジェを越える「何か」を作り出しうる「熱」があるだろか?、と。
 「太陽の塔」を越えるものを創る芸術家がいるだろうか。
 いたとして、それを誰もが支えられるだろうか。
 予算がつかないとか、作業は全部ボランティアにやらそうぜとか、場所が確保できないとか、子供が見ると泣くとか(実際太陽の塔を見て泣く子はいるらしい)、やっぱガンダムがいいからガンダムで行こうぜガンダムガンダムぅ!とか、鬱陶しいノイズの群れに包まれ、立ち腐れてしまうのじゃなかろうか。

 岡本太郎について再度語るのもしんどいので、昔(もう六年前だ)に書いたエントリーを再録しておこう。映画がイマイチだったんで。

芸術は爆発するものなのだということ

 アレクサンドル・コジェーヴという人がいまして、亡命ロシア人で哲学者でヘーゲルの解釈で有名な人なんですが、この人の著作で『ヘーゲル読解入門』の註にこんなことが書かれています。(国文社版より抜粋)

……能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これにひってきするものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にも関わらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。
……結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。

 なんか頭の中がかゆくなってくるんですが、このスターリニストのおっさん(スターリンが死んだ時『父親が亡くなったような気がした』って言ってたりする)が言ってることが、ソ連が崩壊して『歴史の終り』なんてのがベストセラーになったとき、一部の保守と呼ばれるインテリ層にウケたりしました。(それ以前に各所で浅田彰が批判してたのも逆宣伝になってしまいました)
 コジェーヴが想像したのとは全然違う形ではありますが、日本のマンガやアニメは世界中に受け入れられており、今やCOOL JAPANと呼ばれたりしてるとか何とか。(ってか、日本国内のサイトでしか“COOL JAPAN”なんて見たことないんだけど、どこらへんで言ってんの?)

 しかし、あくまで日本の伝統文化に根ざしながらも、スノビスムとまったく無縁の人もいます。
 そう、「芸術は爆発だ!」の岡本太郎です。
 この人の作品がまぎれもなく「芸術」であるわけは、大衆的人気を博しながらも、エピゴーネンがまっったく出てこない、ということからわかります。もしかすると、私が知らないうちに現れて、私が気づかないうちに消えているかもしれませんが、そんなのは元からいないのと同じです。
 スノビスムというのはあれやこれや定義がありますが、「日本的スノビスム」とくれば、「良質なものを模倣しつつオリジナルよりも良いものを作り上げる」ことにあるわけで、マンガやアニメなんかはそうやって発展してきた「文化」なわけです。
 ところが岡本太郎はそこから逃れている。逃れているだけでなく、今もって有名である。逃れていても無名なら意味ないですから。
 岡本太郎を批判するのはたやすいし、沖縄の写真の件とか問題も多いんですが、日本国内のこの文化状況のただ中にあってスノビスムから逃れおおせている、というのはとてつもなくすごい、まさに「芸術」であると思うわけです。

 さて、そんな岡本太郎ですが、フランス滞在中にコジェーヴのヘーゲルについての公開講義を受けています。
 親交のあったバタイユの影響でしょうか。受講者名簿にtaoo okamotoと記録されているとのことです。
 ファーストネームからrが抜けているのは、舌を転がすようなフランス語のrが上手く発音できなかったのかもしれません。
 もちろん、この講義でコジェーヴが日本のスノビスムについてふれるということはなかったでしょうし、岡本太郎がこの講義をどこまで理解したかもよくわかりません。(著作でふれてますが、ほんとにふれてる程度)
 ただ、この講義は多くの哲学者・思想家に多大な影響を与え、現代哲学を語る上で重要なメルクマールになっていることは確かです。

2018年10月2日火曜日

たまには読書の記録などを

 ふと気づくと映画のことばかり書いているので、ちょっと最近読んだ本のことをメモしておこうと思う。
 仕事(執筆)のために読んだものと漫画をのぞき、九月中に目を通した本を並べてみた。

2018年9月21日金曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪【ららら科学の子の続き編】

Researcher at the center of
an epic fraud remains an enigma
to those who exposed him
    先月のことになるが、日本の医学分野における論文が、目に余るほど捏造が多い、ということについて「サイエンス」誌で取り上げられた。

2018年9月13日木曜日

なんでそんなにゾンビが愛されるのか

    今日、巷で評判の『カメラを止めるな!』を観ました。
 感想としては、「ゾンビがくるりと輪をかいた」というか、「子鹿のゾンビはかわいいな」というか、そんな感じでした。珍しく一家三人で観たんですが、家族で鑑賞するには最適の映画ですね。ぽん!(←せっかくなんでネタバレ)

2018年8月11日土曜日

小津安二郎は本当にラーメンが好きだったか

    若い頃観たものを歳経てから観直すと新たな発見がある。
 それは別な色彩の感動という形をとって現れることもあるが、昔は気にならなかったものが今になってみるとどうも気になる、ということもある。親父になって了見が狭くなり、小姑のような嗅覚が身についた、というだけのことかもしれないが。

2018年8月3日金曜日

子供を作るのってぜんぜん「生産」じゃないんだけどな

 あまりの暑さに脳みそが茹で上がりそうな今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
 うだうだと日々を送るうちに、世間では「生産性」とやらが話題のようで。
 LGBTについては以前触れたので、今回は「生産」について少々。