2016年1月23日土曜日

「ティダック・アダ、アルティニャ(意味はない)」とベネディクト・アンダーソンが言ったわけではないが

 その言語の特徴として、
「いくつかの言語が混ざりあって作られている」
「現代世界の技術用語や思想的抽象概念から、おびただしい数の、そしてほとんどあらゆる分野からの借用からなっている」
「公的な場での演説を全くわからないまま、多少とも感動的に聴いてしまう平均的な国民にとって、その輸入の語彙の部分はほとんど理解しがたいものである」
言葉と権力―
インドネシアの政治文化探求
「もったいまわった言い回しのごった煮であり、諸言語の魔法のような混融状態である」
 ベネディクト・アンダーソン『言葉と権力』にある、インドネシア語についての記述である。
 やや書き換えて冒頭に並べたのは、こうしていきなり突きつけられると、まるで日本語のことを言っているように感じられるからだ。
 そしてこれらは、普段日本人が目を背け、忘れようとしている、鏡の中の映し姿でもある。
 さらにベネディクト・アンダーソンは、「権力」についてその特徴を記述してみせる。
「権力は抽象的である」
「権力の源泉は多様である」
「権力の集積には内在的な限界がない」
「権力は道徳的に両価的である」
 なるほど、我々も普段「権力」という単語に出くわした時、このようにとらえている。
 しかし、インドネシアにおける「権力」はまた別の特徴を持つ。
「権力は具体的である」
「権力は同質的である」
「宇宙にある権力の総量は一定である」
「権力は正統性の問題を提起しない」
『言語と権力』の中で、ベネディクト・アンダーソンは、この二つの権力を区別する。翻訳書の中では、後者のインドネシアの権力は、権力とボールドして表示されている。
 そして、この権力について語られる時、多くの場合において天皇制について語られているかのような錯覚を覚える。
 天皇制のもつ権力が、実はアジア的な権力であることについて、やはり日本人は目を背け、忘れようとしている。

 こうして具現化された権力に出会うことで、ベネディクトはこう語る。
…………
マックスヴェーバーの「カリスマ」論をうまく単純化できるということを、極めて仮説的ではあるが提案したい。
…………
 つまり、未だ多くの謎を含んだ「カリスマ」について、インドネシアで露わになっている権力を説くことで解説できる、と考えているわけである。
 元々ヴェーバーのカリスマ論は問題の多いもので、人によっては「ヴェーバーはここでファシズムを肯定している」と難じるくらいだ。多くの批判を浴びせられながらも、ヴェーバーの論は今も時に応じて引用される。どれだけ批判されても、そこに批判しきれない「余り」ができるからだ。
 そこで「権力」を権力に置き直すことで、その論を単純化できると、ベネディクトは思い至った。
 だが、普段日本人は天皇について、そのカリスマを語ることを避け、忘れようとしている。

 ベネディクト・アンダーソンがインドネシアについて「何もかも」語る時、その語り口の容赦のなさによって、日本人は自らを「アジア人として」気づかさせられる。
 ベネディクトとアジアとの関わりは深い。
『言葉と権力』の「日本語版序文」によれば、
……………
 私は一九三六年中国の昆明で生まれた。それは、私の父が、弱体化した清王朝に元々はヨーロッパ帝国主義列強によって強制された、元大英帝国海軍税関の上級官僚であったからである。
………… 
 彼が生まれた一年後に盧溝橋事件があり、やがて太平洋戦争の勃発とともに中国を離れ、父の故郷アイルランドに帰った。
 彼は日本人の「インドネシアニスト」と知り合い、大きな影響を受けたという。さらに彼の権力論は丸山眞男の『現代政治の思想と行動』を参考としている。日本についての記述は、他の著書においても、西欧人の著書によくある「ゆがみ」がない。
 そして、この『言葉と権力』は、土屋健治に捧げられている。
 ベネディクト・アンダーソンと土屋健治は、お互いに「インドネシア語」で文通し、会話したという。
 序文の最後に、その交流について印象的なエピソードが語られる。
…………
ある所で我々はとても良く似た形状の垂直に立った数百の記念碑で満ちた広大な墓地に辿り着いた。しかし、土屋さんは他の物とは全く違った風情の一つの碑を指さした。それは黒い一枚岩を土台としたとても美しい灰色の花崗岩で出来た碑であった。この控えめな碑にはどこにも名前が刻まれていなかった。ただ漢字で一字、「無」と刻まれているだけだった。彼にその意味は何かと尋ねたところ、しばし沈黙し、そして穏やかに笑った。「ティダック・アダ、アルティニャ」[意味はない/意味は、存在しない(つまり、無)]と彼は言い、自らの冗談を楽しんでいた。
…………
 ベネディクト・アンダーソンは、この思い出を「京都」でのことだとしているが、本当は鎌倉だったのではないだろうか。そして、その印象的な碑は、このような物ではなかっただろうか。
    これは鎌倉の円覚寺にある小津安二郎の墓である。
 とはいえ、この本では映画について全く触れられておらず、注釈もついてないので憶測でしかないのだが。


東南アジアの思想 (講座 東南アジア学)
カルティニの風景 (めこん選書 2)

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