2016年2月5日金曜日

勅使川原三郎『静か』を見て改めて知る『失われた時を求めて』

『静か』
    一月の半ばのエントリーで、勅使川原三郎『ダンスソナタ幻想 シューベルト』について書いた時、
>ダンスは音楽を常に必要としている。
と書いた実はこの時やや危ういものを感じたのだが、そのまま筆に任せて書いてしまった。まさかそれから幾日も経たぬうちに、無音のダンスを勅使川原三郎が踊るとは思っても見なかったのだ。あらかじめ知っていたなら、そのようには書かなかった。
 なんと恐ろしいことだろう。
 芸術家というものは、自らそれと知らず凡人を窮地に追い込むのだ。
 しかしそれでも、音楽の、いや「音」の伴わないダンスは可能だろうかという不安を感じないではなかった。いや、上から目線はよそう。そのダンスに果たして自分がついていけるのかどうか、と怯えていたのだ。

 観に行ったのは最終日だった。ライトがつき、本当に音もなく始まった。
 最初は室内の換気の音、床をすべる靴の音、腕が空を切る音、絹ずれ、客席の咳払いなどが耳についた。眼ばかりが無音の情景を見るうち、耳が勝手にその飢えを満たそうとするようだった。
 やがて慣れてくるにつれ、見ている踊りに不思議な懐かしさが感じられてきた。
 最初、その懐かしさがどこから来るのかわからなかった。
 以前、似たようなものを見たことがあっただろうか?中野テルプシコーラで観た前衛ダンスに?それともアレクサンドル・ソクーロフの映画のシーン?いや、もっと遥か昔の、何か……何だろう?
 忘れている。いや、忘れていることすらも忘れていた、断片的な映像の数々。
 その時、ふと気づいた。
 忘却の海に沈む記憶のかけらは音を持たない。
 音とは時間である。
 時を刻むのは「音」であり、忘却は音をともなう時に記憶として意識に浮かび上がる。
 逆に、無意識の中で記憶は時間を失う。
 そうだ、プルーストが『失われた時を求めて』で書こうとしたのは、こういうことじゃなかったのか?

失われた時を求めて 4 第二篇「花咲く乙女たちのかげにII」 (古典新訳文庫)
…………
……私たちの記憶の最良の部分は私たちの外、例えば、雨を含んだ風や閉め切った部屋の匂い、最初に火が熾りかけたときの香りのうちに、そう、私たちの知性が使い道を知らずに軽んじていた何か——最後まで取り置かれていた過去であり、過去の最良の部分でもあるもの、すなわち、涙が最後の一滴まで涸れ果てたと思われた時になおも私たちに涙を流させる何か——を私たちが自分で見いだすことのできるところならどこにでも存在している。私たちの外? 正確には私たちのなかに、と言ったほうがいいだろうが、ともかく私たち自身の視線からは隠されて、多少とも長い時間にわたる忘却のうちに存在しているのだ。……
…………
 いや、それにしてはプルーストのこの小説は「騒がしい」と言えなくはないか。
 馬車の車輪が周り、自動車が発進し、汽車は走り、人々はおしゃべりに余念なく、サロンは延々と続き、窓の外からは街の喧噪が沸き立つように流れ込んでくる……(最新訳の文庫はまだこの喧噪まで来てないが)
 しかし、そうした現実の描写に対し、時間という碇を失って忘却に沈む記憶の群は、音と呼べるものを全く失っている。それが音をともなって記憶の上層に浮上するとき、主人公はその時に立ち会い、まさにその時と同じ喜びも苦しみも当時のままに味わうことになる。
 忘却のなかで失われた「時」を求めることは、フィルムの走行音のみをともなって動くモノクロの無声映画に、「音」を与えて蘇らせるようなものではないのか。

 音のない舞台は、時間のないダンスの場であった。
 それを観ながら、『失われた時を求めて』においてどのような「時」が失われたのか、改めで実感することができた。
 勅使川原三郎と佐東梨穂子は、このあとスウェーデンのイエテボリで公演し、この『静か』に基づいた無音のダンスも公開するそうだ。

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