2015年12月26日土曜日

ライ麦畑でつかまるものは?

 ライ麦というものは、あまり日本人にはなじみがない。気候風土が合わないらしく、昔から作られていないのだ。
 ライ麦というやつは、育つと1メートルから3メートルくらいになるそうで、その畑に人が入り込むと姿が見えなくなってしまう。そこでライ麦畑というのは、ちゅっちゅちゅっちゅする場所、ということになっていたりする。ドリフの「誰かさんとと誰かさんが麦畑」というのはライ麦畑のことで、この歌は元々イギリスの猥歌なのだ。それが名作『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルの元になっている、ということは以前エントリーに書いた

 ライ麦はそれほど美味しいというものではない、というのはヨーロッパでも共通認識としてあるのだが、とにかく安定して収穫できる作物の少なかった中世においては、国家の主要生産物になっていたりする。
 十五世紀頃、ポーランドはリトアニアと連合し、ヨーロッパの超大国となっていた。その大国ポーランドの経済を支えていたのがライ麦なのだ。

 ポーランドが当時どのくらいの勢力があったかというと、プロイセンがポーランドの属国になっていたくらいである。プロイセンといえば現在のドイツの大元のようなものだ。ドイツ人はこの事実をあまり口にしたがらないし、学校でもほとんど教えないそうだ。「教科書が教えない」なんとかかんとかというやつである。そのくせ、ポーランド人を揶揄するジョークは、巷間に山ほどころがっていたりするのだ。
 後にプロイセンはかつての宗主国であるポーランド分割に参加し、やがてドイツ帝国を形成した。そしてドイツ帝国は第一次世界大戦に敗北し、ヴァイマル共和国にその姿を変える。
 ドイツ帝国が共和国に変貌した際、世に名高い「ハイパーインフレ」が起きた。
100兆パピエルマルク(マルク紙幣)
    とにかく想像もつかないようなとんでもないスピードでインフレが進み、ジャガイモ一個買うのに札束を積み上げるような事態になった。札束のつまったトランクを置き忘れたら、トランクを盗まれて中身の札束はその場に捨てられていた、なんてこともあったらしい。
 そのとき、このハイパーインフレを沈静化させるアイデアとして持ち出されたのが、「ライ麦マルク」Roggenmarkである。
 当時通貨の裏付けとして主流であった「金」(ゴールドの方ね)ではなく、「ライ麦」を使おうというのだ。金本位制ならぬ「ライ麦本位制」である。
 その時ドイツの農業生産は敗戦の影響をさして受けておらず、ハイパーインフレによる被害は都市部に較べれば軽いものだった。ライ麦の生産にマルクを結びつければ、暴落が止まって安定するはずだ、というわけである。

 ちょっとここで思い出すのが、ミヒャエル・エンデの「食べられる通貨」というアイデアだ。
 つまり、通貨を通貨たらしめる「腐らない」「長持ちする」という特徴をなくしてしまうこと、そしていざとなったら「食べられる」ということによって、通貨の持つ「魔性」をなくしてしまおう、というものである。
 これは、誰もが興味深く感じるものだろう。
 実際日本では江戸時代には「米」が経済単位だったし、中央アフリカでは近年まで「塩」が通貨の代わりだった。そういえば、サラリーマンの「サラリー」の語源だって「塩」である。
 しかし、こうした「食物」を根源とする経済は、それを生産する「土地」との結びつきを強くし、結局通貨の流通性を削ぐものとなってしまう。江戸時代、武士達が経済において商人に牛耳られていたのは、当然と言えば当然のことなのだ。
 
「ライ麦マルク」とは、結局ライ麦のとれる農地の生産性に依拠したものであり、一種の「土地本位制」であるといえた。なので、「ライ麦マルク」という仮称は「土地マルク」に変わり、やがて「レンテンマルク」という呼び名に落ちついた。レンテンRentenとは年金などの公財の謂いである。
 レンテンマルクはレンテン証券Rentenbriefへの交換が保証されており、その証券は農地及び工業資産によって支えられている。発行するレンテン銀行は共和国に対する信用供与を許諾。これによって中央銀行たるライヒスバンクは、共和国を破綻させることなく国庫債券の割引を一挙に中止することが出来る、というわけである。

 しかし、この構想に待ったをかける男がいた。
 後のライヒスバンク総裁でありながら、ナチスの経済詐欺に加担したヒャマル・シャハトである。

 すんません、次回に続きます。

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