応仁の乱 (岩波新書 青版 873) |
応仁元年九月十八日(1467年10月25日)、一条兼良邸が赤松勢等の襲撃を受け全焼。和漢数多の書を蔵した桃華坊文庫焼亡す。質・量ともに金沢文庫に数倍すると言われた書籍群、そのほとんどが喪われた。
とはいえ、ごくごく一部ではあるが、枢要なものは光明峯寺に疎開させてあった。
以下は、疎開させた文書を改めて奈良の大乗院門跡に納めた時の目録。
大乗院寺社雑事記 応仁二年閏十月廿四日
成就院に参申、大閤御対面、御記禄事巨細被仰付之、一紙拝領申、
一條家文書
玉葉
以上六十二合
納置大乗院門跡者也。
応仁二年閏十月日 博陸御判
一条家は摂関家でありながら政治向きは日野富子に押さえられ、経済状態は日々の暮らしにも困る有様だった。
一休の『狂雲集
嘆一條殿飢渇
五車書籍入吟哦
摂録佳名知幾多
一滴我無金掌露
相如渇望竟如何
という詩がある。
一条兼良は博識高才並ぶものなく、「日本無双才人也」(十輪院内府記)「和漢御才学無比類、殊朝廷之儀向後誰人可指南乎」(宣胤卿記)「本朝五百年以来此殿程之才人不可有御座之由」(長興宿禰 記)と言われた。
自らも
伝称、兼良自謂、吾勝菅丞相者三、彼為右府、吾為相国、彼其家門微賤、吾累世摂家也、彼知漢事者、李唐以前而已、知吾朝事者延喜以前而已、吾既知倭漢之古、而加之以李唐以後之事、延喜以後之事、然吾百歳之後、世人尊吾不如彼、非無遺恨焉、故時人招請兼良、則不能掛菅相影像于床上、若偶見之、則怒曰、彼何在吾頭上哉(『続 本朝通鑑』巻一七四、後土御門天皇五)
と、菅原道真をしのぐ自負があった。 一条兼良の母は道真の子孫でもある。
しかしその裏で、思うようにならない自らの境遇を、菅丞相に重ねていたのかも知れない。
以下に続く
無しともいへぬ花かげの鬼
一条兼良の学問と室町文化 |
一条兼良 (人物叢書) |
注:このエントリーは再録です。
真に本を焚くものは火でもなく兵器でもなく……
誰がアレキサンドリア図書館を燃やしたのか
『陶庵夢憶』からほんの少しメモ
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