2016年1月24日日曜日

世界へと投げ込まれたものの見る夢 もしくは勅使川原三郎『青い目の男』について


 上に挙げたのはブラザーズ・クエイの人形アニメーション、『ストリート・オブ・クロコダイル』である。原作は『大鰐通り』と邦題がつけられた、十ページほどの短いものだ。

Bruno Schulz
    書いたのはブルーノ・シュルツというポーランドの作家である。生まれたドロホビチという町は、現在ウクライナ領となっている。作風はよくカフカに比せられるが、その見つめるところはまた別の世界にある。
    なお、彼が『審判』をポーランド語に訳したという話があるが、実際に翻訳したのは元許嫁のユゼフィーナ・シェリンスカで、彼女がシュルツの名を借りて出版した、というのが正しいようだ。
    シュルツが残した小説は少なく、全小説が一冊にまとまってしまう。
 しかし彼から影響を受けた作家、クリエイターは多く、以前『ルック・オブ・サイレンス』についてのエントリーでとりあげた、タデウシュ・カントールもその一人である。

 彼の小説は、読む物の意識を逆回転させ、幼かった時代へと連れ戻してくれる。
 人は大人になるにつれ、木は「木」以外の何ものでもなく、空はただただ「空」であり、ガラスのかけらなどはまったくのゴミとしか見なくなる。世界は「名」を与えられることで秩序立てられ、その秩序の中へ組み入れられることで人々は安心を得ることができる。
 しかし子供の頃、世界は名状しがたい「何か」で満ちており、あらゆるものが美しく、また恐ろしく、不安をかき立て、しかし魅力的であった。世界の中に突然投げ込まれた子供はその中でで夢想をめぐらし、自らを守ろうとする。その感覚は誰もが持ちながら、やがて世界が「名」づけられることで、徐々に失われていく。
…………
シュルツ全小説 (平凡社ライブラリー) 
    店々の飾り窓の上には、大きな明るい盲目の陽射しよけの布地が熱い風に吹かれて音もなく鳴り、縞模様が立って陽光に燃えている。死んだ季節は空っぽの棚の上で、風に掃き払われた通りの上で得たり顔だ。
    方々の菜園で脹らみ上がった遠い地平は、天空の輝きのなかに立ち、めくるめき茫然自失する、地平は、ほんの今し方、巨大なけばけばしい布地となって天空の荒野(あれの)から飛来したかのようだ、布は明るく、燃え立ってはいるが、空中で裂けて、間もなくぼろぼろとなるため、新鮮さを取り戻そうと陽光の新たな補給も待ち受けている。
(ブルーノ・シュルツ『夢の共和国』より)
…………
 世界に「名」づけるものは、「父」である。
 ブルーノ・シュルツの小説世界では、父はときに神の如くでありながら、やがて哀れなものに変容し、その存在をしぼませていく。
 その「父」のかざす手から、「名」づけられた現実の「世界」から、子供らの夢想する共和国を守るものとして、「青い目の男」は登場する。

 荻窪のAparatusにおいて、勅使川原三郎と佐東梨穂子と鰐川枝里によって踊られた『青い目の男』(ブルーノ・シュルツ『夢の共和国』より)というダンスは、世界の中に投げ込まれてあるものの不安と、はかなさと、抱く夢想を十二分に表現していた。
 考えてみれば、その重心、そのバランス、日常にある動線を常に断ち切る勅使川原三郎の踊りは、世界のなかにただ在ることの夢想の守り手として、ふさわしいものといえる。
 朗読される『夢の共和国』の「言葉」の中で、その踊りはいつ終るともなく続けられた。
…………
 藍色の目の男は建築家ではない、むしろ演出家である。風景と宇宙的舞台の演出家なのだ。自然の意図をつかみ取り、その秘密の希求を読み取ることができる—それが彼の腕前である。
(ブルーノ・シュルツ『夢の共和国』より)
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 なお、「青い目」とは、よくある静脈血を透した青さではなく、空の濃い青色がむらなく眼に映されている、と考えるのが良いようだ。


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