平気で うそをつく 人たち |
「ウソしか言わないことにしている」と言えば、それはパラドックスだ。
ウソという、倫理に悖るとされながら、時に社会の潤滑油のように認識されるものについて、あまり深く考察されたことはないように思う。
今国会ではウソが暴かれて右往左往の有様であることだし、ちょっと「ウソ」というものについてつらつら考えてみたい。
「ニセ科学」と呼ばれるものがある。
科学的に証明されたわけでもないのに、科学的であるかのように装って情報をばらまくものだ。主に薬品か薬めいた食品などで、アトピーに効くだのがんが消えるだの、たちまちお肌がツヤツヤになって20歳若くみられるようになるだの、ぐんぐん体重が減って理想のボンキュッボンなボディが獲得できるだの、そういった類のが代表的だ。
そうしたもののほとんどが、プラシーボ(またはプラセボ)と呼ばれる効果、つまりは気の持ちようで治った気がしてしまう効果をもたらす偽薬なわけだが、じゃあ今薬局に並んでいるもので、プラシーボに頼らないものがどのくらいあるか、と言われたらどうだろう。一応お上のお墨付きがあるんだから、ということで、飲むと安心して効いてくるような気がしてくる、なんてのも結構あるんじゃないのか。特に風邪薬なんかは。サプリメントの類なんか、科学者が「効果なし」「金の無駄」と断じているものも多い。そういえば、日本の各家庭にはオロナインが常備されていると思うが(我が家にもある)、効能書きに「水虫」とあるけど、これ塗って水虫が治った人っているのかね?
あれこれと考えるほど迷路にはまり込んでいくが、これは「科学」というものが本来「ウソを見抜けない」ものだ、ということからきている。
科学が判別できるのは、正しいか間違ってるかであって、その間違いが意図的な「ウソ」であるか、ただのうっかりミスでてへぺろなものなのか、というのはわからないのだ。
それは「批判」という「文系」の思考において、初めて判断しうるものである。
つまり、科学者がどんなに「ニセ科学」を「科学的に間違ってる」と糾弾しても、それはほとんど効果がない。要はそこに明確な「批判」があるかどうかの問題だからだ。
ちょっと前に、「大学から人文系を無くして、理系に置きかえよう」なんてな通達が文科省からあったけど、これなんかは「社会でウソを付きやすくしよう」という目論見だったんじゃないのかね。散々批判されて「ご、誤解ですよ、誤解」なんて逃げを打ってたけど、結局現在もその方向でゴリ押しされてんだよね。
科学そのものが「ウソ」への抵抗が薄いということは、以前「ららら科学の子」というシリーズで書き綴ったことがある。
そしてそれは科学にとどまらず、「論理」や「合理的思考」などにも言えることだ。
ウソを見抜くのは「批判」であり、その元は「批判的精神」である。
科学や論理や合理性は、そのための「ツール」なのだ。
批判抜きにそれらのツールを使用しても、空気銃どころか輪ゴム鉄砲ほどの威力しか持たない。
ではその批判とは何か、ということに移る前に、「ウソ」とはどのようなものか、について少々述べてみたいと思う。
次回に続く。
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