2018年2月3日土曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の存在論を一行で表すと編】


『カントリー・ロード』といえば、故郷への切ない思いを歌い上げたカントリー・ソングの定番だ。今の日本では、ジョン・デンバーやオリビア・ニュートンジョンより、ジブリアニメ『耳をすませば』で憶えている人も多いだろう。
 で、この『カントリー・ロード』なんだが、実は結構いい加減な曲なのだ。ウェスト・バージニアを「まるで天国 Almost Heaven」と歌いながら、作ったジョン・デンバーも、結婚前だったジョン・ダノフとタフィ・ナイバードも、ウェスト・バージニアに生まれたのでもなければ、足を踏み入れたことすらなかった。
 ただ、メロディにちょうど語呂がいい、という理由だけでウェスト・バージニアが歌いこまれたのである。
 そんな事実が広く知られることとなっても、今もこの曲は耳にすれば誰もがノスタルジーに胸かきむしられる名曲であり、バージニアあたりじゃ州歌に採用されてたりするのだ。

 何が言いたいかというと、ふるさとへの「なつかしさ」という人の心を強く揺さぶる感情、ともすると命にも関わるほど大切に考えられてしまう感情は、その実結構いい加減に出来上がっている、ということである。
 以前のエントリーで「ドイツ語には『なつかしい』にあたる言葉がない」と書いた。(ちなみに中国語にもなかったりする)
 ふるさとに対する感情としては、何やら「身近だ」とか「大切だ」とかで表現する。ふるさとから自らのある「いま・ここ」への距離という、あいまいな時間に寄り添うような感情を直に表したような、「なつかしい」という言葉ではない。
 そしてまた、以前のエントリーで日本語自体が「いい加減な」シロモノだと書いている。それこそ、『カントリー・ロード』で表現される「なつかしさ」のように。

故郷へかえりたい ~カントリー・ロード~

 世界の各々の文化のあり方として、感情をどのように表現し、どの部分を有為に表すかは、その地域の歴史や文化だけでなく、言語がいかな構造を持っているか、も重要な要素としてあると思う。
 ハイデガーの『存在と時間』には「ふるさとHeimat」という単語は登場しない。それはドイツ語に「なつかしい」にあたる単語がない、ということもあるように思う。
 ハイデガーはヘルダーリンやヘーベルの詩を愛したし、ヒトラーの口にする「祖国」にシビれていた。「祖国」もまたドイツ語ではHeimatであり、その一語の中に「愛さずにはいられない何か」というニュアンスも含まれている。
「私のふるさと」であればMeine Heimatである。ついでに、彼のふるさとはseiner Heimatとなる。そう、三人称単数男性の所有代名詞は、存在と同じseinなのだ。和辻哲郎が「ハイデガーのいう存在は所有ではないのか」と考えたのは、この辺にきっかけがあるかもしれない。実際、ドイツ語の存在 seinは、その語の響きの背景に、すでにして「所有」が隠れている。
 さて、私は今「私の」ふるさとと書いた。日本語は所有格(ドイツ語だと二格)を私「の」と、助詞をつけて表す。ドイツ語はIchがmeinと言葉自体が変化する。しかし、日本語はそのままである。
 そして「ふるさとの私」とひっくり返してみる。何やら地方紙のコラムのタイトルめいているが、なんとなく了解できる。だが、ドイツ語は論理的なので、そんな大雑把な物言いはしない。
 ドイツ語が厳格であることが、ハイデガーを散々に悩ませ、悩んだあげくに書き表した書物が、さらに読者を悩ませるようになっている。

「ふるさと」とは、ある場所であり空間であり、必ず「時間」の流れをまとっており、それは人々にとって慕わしいものである。
 どのように慕わしいかといえば、それは「私のふるさと」であり、「ふるさとの私」であることだ。「私」は「ふるさと」を「持って」(所有して)いるし、同様にして「ふるさと」が「私」を「持って」(所有して)いる。
「私」が「ふるさと」を「なつかしい」という時、私が「ふるさと」を持つと同時に「ふるさと」は「私」を持っているのだ。わかりやすく言い換えれば、「ふるさと」に「所属」しているということだ。
 ここに「存在」とは何か、の解が現れ出ている。
 つまり、「私」に「ふるさと」が「ある」ことと、「ふるさと」に「私」が「ある」ことは、同じなのだということだ。
 ゆえに、ハイデガーの言う「存在とは何か」は、日本語なら一行で済む。

存在とは「の」である。

 ただこれだけだ。
 ハイデガーはこれに苦しんで、現存在 Daseinによって存在 Seinを所有し、現存在は世界・内・存在 in-der-Welt-seinだとした。「ふるさとの」はin der Heimatであり、「ふるさと」への慕わしさを世界・内・存在 in-der-Welt-seinに盛り込もうとしたのだ。
 
 だいたい「なつかしい」などと言う感情自体、無根拠でどこにでも現れて、何にでもくっつく代物である。それは冒頭に例を示した通りだ。だからそれを表す単語がなくとも、なんの不都合もない。
 しかし、人はちょくちょくそれをひどく大切に抱え、感動して涙し、時には命と引き換えにすらする。
 ハイデガーもそのように考えたのだろう。
 そして今も、少なからぬ人たちが、そのように考えている。



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