2018年3月23日金曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪【正直者が正直にウソをつく編】

  第二次大戦中の
米軍のポスター
「日本人は非常にウソつきである。どのくらいウソつきかというと、彼らが中国で人を雇う時、同胞である日本人は信用ならないので、なるべく中国人を雇おうとするくらいである」

 このひとつ話は、戦時中米軍の「日本軍について知るための授業」で語られていたらしい。
 日本人がこれを聞いたら、百人が百人「ウソだあああああああ!!」と断言するに違いない。
 では、この話の「日本人」と「中国人」の部分を入れ替えてみたらどうなるか?
 それを聞いた日本人は、大方ニヤニヤしながら「ああ、そうかもね」「そういうもんだよ」と曖昧に肯定することだろう。
 実際この話、日本人と中国人を入れ替えたパターンで、90年代の日本で流布されたことがある。週刊誌の記事でまことしやかに書かれていたり、一杯飲み屋でしたり顔で語る親父もいた。
 
「ウソつき」というレッテルは、共同体が相対するとき、お互いに貼ったり貼られたりしやすいものである。あとは、「間抜け」とか「すけべ」とか「犯罪者」などだ。
 そして他のレッテルに比べて、「ウソつき」というレッテルは差別と結びつきやすい。
 それも明白な形ではなく、日常に潜む形で。
「ウソつき」ということはつまり、「信用ならない」「話が通じない」「生活を共有できない」ということである。これらは差別を正当化する口実となる。
 そして、困ったことに、こういうことをよく口にするのは「正直」な人だったりする。「正直」というのは、その人が属する共同体の中で存在を認められているということ、そして、何よりも「自分に正直」だということである。
「自分に正直」という場合の「自分」というのは、辞書に載っているような自分ではない。それはあくまで、背景としての共同体に属する「自分」である。
 そうした背景の中にあることを、「自分に正直」な人は「当然」「常識」などと考えているので、自らの発言を「本音」と称して語ることになる。
 共同体同士が対立する状況に陥ると、正直な人ほど逆説的にウソに絡め取られやすくなる。
改訂新版 共同幻想論
    それは、共同体というものが幻想に過ぎないからだ。
 共同体という幻想がどのように形成されるかについては、五年ほど前にエントリーを書いた。(ここここ。しかし、もう五年もたつんだなあ)同時に差別というものがどのように生まれ、それが人間存在と抜きがたくあるもののように考えられてしまう理由についても。

定本 想像の共同体
    自らが属する共同体の他にもう一つの共同体が出現すると、共同体の根幹が揺るがされることで、それを形作っていた構造がむき出しになる。その構造は互いの「不信」を乗り越えることによって形成されているので、とりあえず他の共同体を「ウソつき」と呼ぶことで、お互いの信用を取り戻そうとするのだ。
 ウソをつかない人間などいない。
 相手方を「ウソつき」となじり、自分たちが正直ものばかりであるかのように印象付けることの方が、巨大なウソだと言えるだろう。ウソつきのクレタ人なんか、とっくに滅んでいるわけだし。

 だがここで、人間に乗り越え難い究極の「ウソ」が立ち現れる。
「殺人」という名の「ウソ」である。

 次回に続く。
 
 

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