先々月、『太陽の塔』というドキュメンタリー映画を観た。
FBにすら感想を書かなかったのは、妻がうるさいからという訳ではなく、ドキュメンタリーとしてどこかピンボケしたような、とっちらかった印象を受けたからだ。
一番知りたかったのは、岡本太郎にあのような異様な建造物を作ることを許した、時代の流れに反する「熱」がどこからきたのか、ということだったが、ついにそれは解き明かされなかった。
謎は謎のままにした方がいい、ということだろうか。
で、とうとうまた大阪で万博をすることになったわけだが、東京でオリンピックやって大阪で万博とか、平成の次の年号はもう一度昭和に戻っちまうんじゃないか、などと思わされてげんなりしてしまう。この後はオイルショックでも来るのか知らん。
そして、改めて太陽の塔に想いを馳せると、大きな失望をまとった疑問にぶち当たる。
果たして、今の日本にあのオブジェを越える「何か」を作り出しうる「熱」があるだろか?、と。
「太陽の塔」を越えるものを創る芸術家がいるだろうか。
いたとして、それを誰もが支えられるだろうか。
予算がつかないとか、作業は全部ボランティアにやらそうぜとか、場所が確保できないとか、子供が見ると泣くとか(実際太陽の塔を見て泣く子はいるらしい)、やっぱガンダムがいいからガンダムで行こうぜガンダムガンダムぅ!とか、鬱陶しいノイズの群れに包まれ、立ち腐れてしまうのじゃなかろうか。
岡本太郎について再度語るのもしんどいので、昔(もう六年前だ)に書いたエントリーを再録しておこう。映画がイマイチだったんで。
芸術は爆発するものなのだということ
アレクサンドル・コジェーヴという人がいまして、亡命ロシア人で哲学者でヘーゲルの解釈で有名な人なんですが、この人の著作で『ヘーゲル読解入門』の註にこんなことが書かれています。(国文社版より抜粋)
……能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これにひってきするものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にも関わらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。
……結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。
なんか頭の中がかゆくなってくるんですが、このスターリニストのおっさん(スターリンが死んだ時『父親が亡くなったような気がした』って言ってたりする)が言ってることが、ソ連が崩壊して『歴史の終り』なんてのがベストセラーになったとき、一部の保守と呼ばれるインテリ層にウケたりしました。(それ以前に各所で浅田彰が批判してたのも逆宣伝になってしまいました)
コジェーヴが想像したのとは全然違う形ではありますが、日本のマンガやアニメは世界中に受け入れられており、今やCOOL JAPANと呼ばれたりしてるとか何とか。(ってか、日本国内のサイトでしか“COOL JAPAN”なんて見たことないんだけど、どこらへんで言ってんの?)
しかし、あくまで日本の伝統文化に根ざしながらも、スノビスムとまったく無縁の人もいます。
そう、「芸術は爆発だ!」の岡本太郎です。
この人の作品がまぎれもなく「芸術」であるわけは、大衆的人気を博しながらも、エピゴーネンがまっったく出てこない、ということからわかります。もしかすると、私が知らないうちに現れて、私が気づかないうちに消えているかもしれませんが、そんなのは元からいないのと同じです。
スノビスムというのはあれやこれや定義がありますが、「日本的スノビスム」とくれば、「良質なものを模倣しつつオリジナルよりも良いものを作り上げる」ことにあるわけで、マンガやアニメなんかはそうやって発展してきた「文化」なわけです。
ところが岡本太郎はそこから逃れている。逃れているだけでなく、今もって有名である。逃れていても無名なら意味ないですから。
岡本太郎を批判するのはたやすいし、沖縄の写真の件とか問題も多いんですが、日本国内のこの文化状況のただ中にあってスノビスムから逃れおおせている、というのはとてつもなくすごい、まさに「芸術」であると思うわけです。
さて、そんな岡本太郎ですが、フランス滞在中にコジェーヴのヘーゲルについての公開講義を受けています。
親交のあったバタイユの影響でしょうか。受講者名簿にtaoo okamotoと記録されているとのことです。
ファーストネームからrが抜けているのは、舌を転がすようなフランス語のrが上手く発音できなかったのかもしれません。
もちろん、この講義でコジェーヴが日本のスノビスムについてふれるということはなかったでしょうし、岡本太郎がこの講義をどこまで理解したかもよくわかりません。(著作でふれてますが、ほんとにふれてる程度)
ただ、この講義は多くの哲学者・思想家に多大な影響を与え、現代哲学を語る上で重要なメルクマールになっていることは確かです。
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