やはりおいたをした時、例えばチャンバラ遊びが過ぎて棚から七宝焼の花瓶を落とし、母親からこれ以上ない不快な金切り声にのせてあらん限りの罵倒を投げつけられた時だろうか。
その時人は、自分が「悪い」とは思っていなくても、「悪」とは自らの想いを超えた所に基準があるのだと知る。
しかし、その叱り方があまりにも感情的で非論理的で理不尽であった時、人は思考を停止させて、「他人」に見つからなければ何をやっても「悪」とはならない、というニヒリズムを身につける。
そうした「ガキ」がそのまま大人になって何かやらかすと、平気でこう言い放つのである。
「それの何が悪いの?」
幼稚園児じゃないんだから、何が悪いかは当然本人はわかってる。わかってて開き直っている。何が悪いかといえば、性格が悪い。ねじくれたまま成木となったエンコウスギの様なもので、箸にも棒にもかからない。だからこちらも、
「悪いのはお前の頭だろ」
と意地の悪い返答をしたくなる。
実際、このままでなくとも「それの何が悪いの?」に類似したことを口にする人は多い。そして、そういう人は例外なく偉そうである。
「それの何が悪いの?」というのは、「奴隷の思考」である。
ニーチェ風に言うと末人(der letzte Mensch、超人の真逆)というやつか。勘違いした大衆からは逆に、「善悪の彼岸」であるかのごとく俗受けしたりするが、その実態は低劣なニヒリズムである。
奴隷がなかなか自分の失敗を認めない存在だということは、スウィフトの『奴婢訓』に活写されている。
奴婢訓 (岩波文庫) |
そんな奴隷が権力を握った時、何をするかといえば、自分以外の人間を自分以上に奴隷化することである。
その時、奴隷的心性を持つ人だけが、奴隷の政権を「消極的に」支持するのだ。なぜ「消極的」かというと、決して積極的になれないくせに何かをなそうとするのが「奴隷の性」だからだ。
「それの何が悪いの?」という思考停止は、最近世の中に広まっていて、いい歳こいたジジイたちがお手本になっていたりして頭が痛い。
もし本当に何が悪いのか知りたいのなら、「それが悪とされるのはなぜか」という問いを立てて、自らが考えなくてはならないわけだが、奴隷はニヤニヤするばかりで絶対に自分では考えようとしないのだ。
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