2018年8月3日金曜日

子供を作るのってぜんぜん「生産」じゃないんだけどな

 あまりの暑さに脳みそが茹で上がりそうな今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
 うだうだと日々を送るうちに、世間では「生産性」とやらが話題のようで。
 LGBTについては以前触れたので、今回は「生産」について少々。


 えー、まず「生産」とは何かというと、自然にあるものを作り変えて人間の欲望に沿ったものにしてしまうことですね。
 ここで勘のいい人は「おいおいおい、こらちょと待てや、『欲望』は自然なもんとちゃうんかい」と突っ込むと思います。
 この場合の欲望ってのは、三大欲望とされる食欲・性欲・睡眠欲ではなくて、「自由」への欲望です。
森の生活 (ウォールデン)
    まず、人間の「自由」ってのは、自然から離れれば離れるほどそれを感じるものです。ソローの『ウォールデン』でも読んでもらえりゃわかりますが、自然に「還る」なんてのはむしろ「不自由」を楽しむものです。自然界を離れていく「自由」よりも、自然の中の「不自由」にこそ真の豊かさがある、とソローは考えました。
 人間が「生産」する根拠としての「欲望」は、より自然から離れて自由になること他なりません。
 じゃあ、子供を作ることは、さて「生産」と言えるのかどうか?

 ここで、みなさん思い出してください。
 子供ができた時、子供はあなたを「自由」にしてくれましたか?
 子供がいない人は自分が幼い頃を思い返してください。あなたは両親を「自由」にしたいと考えていましたか?自分が自由に振る舞うために、両親に無理をいうのが当たり前だったのではないでしょうか。
 考えてみりゃ、子供を作るのは人間が行う一番「自然」な行いですから、それが「自由」をもたらすことなんかありえないし、「自由」がなければそれが「生産」につながることもありえません。
 功利主義のJ.S.ミルは、結婚して子供を作らないのが一番効率的だと唱えました。
 
 子供を作ることを「生産」の手段として考えることは、実は古代ギリシアの頃からある誤謬です。
    
プラトン 『国家』
―逆説のユートピア 
(書物誕生 あたらしい古典入門) 
    有名なのはプラトンの『国家』ですね。いかに優秀な国民を生み出し、理想的な国家を作り上げるか、プラトンは哲学的に考えました。端的に言って、優生思想とそんなに変わりません。で、実際にシュラクサイで実験して失敗しました。
 子供を作ることを「生産」として語ることに無理があることに気づいた人たちは、そこで「再生産」という言葉をあてはめました。
 上手いネーミングですね。私も一時期そのように考えていました。
 でも「再」がつこうがつくまいが、「生産」は「生産」なんです。
 子供がやがて生産活動をすることを期待しての子作りとか、実際は無理があるのです。
 そうした「自然」に反する行いは、むしろ多くの不幸を呼び寄せました。「貧乏人の子沢山」てやつですね。
 子供を作ることは、「生産」でも「再生産」でもなく、自然から離れて自由になる生産に反するものとしての「反生産」なんです。
 
 「人間と動物を隔てるのは『生産』である」とマルクスは言いました。
 人間はどうしたって「自由」を求めるものだし、それは「自然」を作りかえて「生産」していくことで得られるものです。
 ならば逆説的に、「反生産」である子作りをしない人間こそが「生産的」であり、それこそが人間社会の求めるもの、といえるのではないでしょうか。
 つまり、LGBTという子供を作らない人たち(必ずしも全員ではないでしょうけど)がある程度存在するのは、「自由」を求め「生産」することが宿命である、人間社会の無意識(集合的無意識とか?)が生み出したものと言えるのかもしれません。
 実際、世界史に残る偉人には、同性愛者が少なくないですし。

 ま、だからといって、「いわば、しっかりと、国難の、中において、あらゆる政策を総動員した、中にあって、いずれに致しましても、大切なことは、私の祖父、なのであります」とか舌ったらずにくっちゃべる男が「生産的」だなどとは、まったく思いませんけどね。

資本論第一部草稿 直接的生産過程の諸結果 (光文社古典新訳文庫)

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