2018年7月10日火曜日

高学歴でもオウムにひっかかるのは全然不思議でもなんでもないということについて

 オウム逃亡犯最後の一人が捕まりました。逮捕された写真を見てまず思ったのは、(あ、こいつ、なんか俺に似てる……)
 昔、オウムが騒がしかった頃、新実智光を見てやっぱり(坊主だった頃の俺に似てる)と思ったものでした。大学時代、少林寺拳法部なんぞに入っていたので、学ランに坊主頭だったんです。
 それから行きつけの飲み屋でも、よく「緊急対策本部長」なんて呼ばれました。上祐ですね。なんか「教祖顔」があるんなら、「信者顔」ってのもあるのかもしれません。誤認逮捕されなくて良かった。

 さて、最後まで粘った高橋は、菊地直子や他のオウム幹部連中と違ってそんなに学歴は高くないそうですね。信者の学歴が話題になる宗教、ってのもおかしなもんですが。とはいえ、テレビにでてくるエラそうな人が「なぜ高学歴なのにあんな宗教にひっかかるのかわからない」みたいなことを言ってたのにはひっくり返りました。
 いやあ、だって、あれから17年ですよ?とっくにそんなことはわかってて、少なくとも「インテリ」と呼ばれる人たちは共通認識くらい持ってると思ってたんですが、どうやら買いかぶってたみたいです。まあ、人間ってのは自分のことになるとよくわからないもんですからね。手前の尻は半分づつしか見えません。そういえば、地球の理性はお尻にあって、自分のお尻を追っかけて地球はぐるぐる回っている、なんて詩を書いた人がいました。リンゲルナッツっていうカフカと同い年のドイツの詩人です。なんか仔犬みたいですね、地球。

リンゲルナッツの放浪記

 さてさて、「じゃあお前はわかってんのか」というつっこみをかわす、というか、自分自身のためにもちゃんと押さえとかなきゃいけない話なんで、ちょっと書いてみます。
 えーと、では、科学者の話をします。
 オウムについては、「なぜ理系のエリートが?」とよく言われましたし、高学歴の代表としても「科学者」を扱っておけば、わかりやすくて間違いがないと思います。
 まず最初に、科学者は科学者のことを信用しません。
 そりゃそうです。科学的態度ってのはそういうもんですから。厳密な事実の積み重ねこそが科学ですからね。「ニュートリノは光より早い」なんて結果が一度出たくらいで、ほいほい信じちゃったりしないんです。これは相対性理論についても同じです。この理論を金科玉条のごとくあがめ奉ってる科学者なんていません。ことあるごとに検証されています。ニュートリノ云々の結果が公表されたのも、そういう流れがあるからですね。
 そんな疑いまくりの科学者が、宗教にコロッといっちゃうのはなぜなのか?
 ここでまた「信用」の話をします。
 「信用」ってのはどんな機能を持っているのか?
 人を信用するってのは、「少々間違いがあっても許しちゃうよ」という態度です。
 だから科学者は科学者を信用したりしないんですね。科学には少々の間違いだって許されないんですから。
 ところが科学者は、一般大衆に向かって科学への「信用」を求めます。「お前らどうせ言ってもわかんねーんだろうから、とりあえず俺っちらにまかせとけや」て感じです。知らしむべからず、よらしむべし、ですね。民可使由之、不可使知之。論語のこれはそういう意味です。
 こういうのを「しょうがないこと」と思考停止してる人も多いわけですが、「頭のいい人」ってのはこういう非対称について、「おかしいんじゃね?」と気づいてしまうんですね。これじゃ「科学」の社会の中での立ち位置が、まるで「非科学的」じゃないか?と。
 さ、ここまでくるとあと一歩です。じゃあ「科学」を信用しない方が、より「科学的」になるんじゃないの?、と。
まんがでわかる 論語 (Business Comic Series)
 そう、冷静になってみて見ると、科学ってけっこうわかんないことだらけなんですよ。わかんないことはわかんないなりに、「科学的」に処理してるのが現状です。
 たとえば、ガンの発生要因ってのも、一部を除いて良くわかんないんです。喫煙が肺ガンの原因、ということになってますが、煙草の何がどうなってガンを発生させるのか、てのは不明なんです。統計的にそうなってるだけで、言ってみれば状況証拠だけです。確かなのは「煙草では肺ガンにならないと断定するのは非科学的だ」ということだけ。科学的にわかってるってことは、こういう「○○じゃないとするのは非科学的だから、○○ならば科学的」というのがけっこうありますね。なんか「お前は死んでないから生きていると判断できる」みたいです。でも一般に科学ってのは、こういう論理をすっとばして、「科学」ということで、「信用」することを迫ります。

 では、この矛盾を解くにはどうすればいいのか……?
 よーし、一般大衆と科学者達の間にも「科学的」態度を持ち込もう。「信用」なんか一切排除しちゃった方が、よりいっそう「科学的」になれるじゃん、と頭のいい人はつい考えてしまいます。
 こうして「科学」そのものに対して「科学的」態度をとり、「信用」を排除することで、科学の中にあるいろいろな欠点をあんまり許そうとしなってしまうんですね。
 これは科学、というか、人間の知性と呼ばれるもの全般がもつ宿命みたいなもんです。
 どんなに頭のいい人間だって、わかってることよりわかってないことの方が多いんですから。
 そこで宗教の出番になってしまう。
 科学がより一層科学的であるためには、神がいた方が都合がいいわけです。
 だから神って、なかなか死なないんですねえ。
 あとはその時その時のきっかけ次第ですから、オウム信者はたまたまオウムに出会っただけで、他の宗教に出会ってればそっちに行ったでしょう。

 最近の原発事故でも、科学者達の態度は一貫して「俺たちを信用しろ」ばっかでした。一部例外はいましたが、ほとんどの人たちは「あ、今の無し無し。ノーカンノーカン!」てな調子でした。
 宗教関係は、この件でさぞかし信者を増やしたことでしょうな。







(以上のエントリーは、2012年に書いたものです。オウム処刑にちなみ一部改変して再録しました)

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