『ライク・サムワン・イン・ラブ』予告編
実は私は、結構な泣き虫である。
しかし、「男は生涯に三度しか泣かないものだ」と祖母(先年百歳で亡くなった)から躾けられたため、涙を我慢するのだけは上手になった。ちなみに「三度」というのは、「右目から涙を流すのはお父さんが死んだ時、左目はお母さんが死んだ時、両目から流すのはキン●マなくした時」とのことである。
泣き虫が涙を流さなくなるとどうなるか。
とても感動しやすくなる。それも、ありきたりで見え見えのバカみたいなお話にも、すぐ感動する。いわゆる「ちょろい」というやつである。水戸黄門で印籠がででーんと出てきただけで、二の腕にはぞくぞくと鳥肌が立つ。
自分が感動しやすいことは自覚しているため、私は「感動」というものにあまり価値を置かない。
ハリウッド映画なんかでもそれなりに「感動」してしまうのだが、全米が泣こうがどうしようか知ったこっちゃない、とも思っている。自分の中では「まあ、それはそれなりにそれだよな」程度にしか扱わない。
本当に大切な「感動」は滅多にあることではなく、それは深く、静かで、精神の底に届くような「体験」を伴うものだ。
最近だと、映画『ライク・サムワン・イン・ラブ』がそうだった。
イラン人のアッバス・キアロスタミが東京を舞台に撮った映画だが、ドキュメンタリスティックな物語への切り込み方やカメラワークに、ここ何年も感じたことのない深い深い感動を「体験」させられた。
いやあ、ドキュメンタルな映画って、本当にいいですね(淀川長治の声で)
さて、世上「感動」と呼ばれるものは、多くは感情の抑制からその芽を出だすと思われる。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う幼児は、感動というものと無縁である。幼児の喜ぶ「あーんパーンチ!」なものは、「快楽」であって感動ではない。
ゆえに、普段抑制されている感情がほとばしり出る時、もはや幼児ではない大人はそこに「感動」する……はずだ、ということになっている。
というのも、インターネットという空間においては、「快楽」のみが優先され、抑制を伴う「感動」は「ウザい」ものとして遠ざけられる傾向があるからだ。
おおよそ子供っぽいその「快楽」は、他者と共有することで「感動」と呼ばれるようになる。それはただ膨れ上がった感情に過ぎないのだが。
そしてネット空間では「快楽」こそが「感動」であるとされ、本来的な「感動」は「ウソくさい」ものとして切り捨てられる。
それはネット空間で紡ぎ出される、自称「文学」なるものを読めばわかる。
「快楽」=「感動」と変換される空間において、「批判」は徹底的に嫌悪される。
なぜなら、「批判」は「快楽」のウソをあばき立てるからだ。
幼児を観察するとわかるが、感情というものは共有できない。ただ共鳴するだけだ。
他者を思いやることは、むしろ自らの感情の抑制によってなされるものであり、ただ垂れ流しの感情によって共有されるものは「幻想」でしかない。
幻想であるがゆえに、それを「幻想だ」と指摘するものを徹底的に排除する。
ネット上で自民党を「消極的に」支持する人たちがそうだ。
自分たちは国家への「愛」を共有していると信じるため、それを「批判」する言説に出くわすと、「そんなことは何の意味もない」「時間の無駄」「ついでに金の無駄」「全く何の役にも立たない」などとリアリストを気取りたがる。
それは「哲学って何の役に立つの?」という物言いに相似している。
なので、ここはジル・ドゥルーズの言を引用しておくことにしよう。
メルロ=ポンティ哲学者事典 別巻:現代の哲学・ 年表・総索引 |
誰かが哲学は何の役に立つのかと尋ねてくるとき、答えは攻撃的でなければならない。なぜなら、そのような問いは皮肉で辛辣たらんとしているからである。哲学は国家や教会の役には立たない。国家や教会には別の関心事がある。哲学はいかなる既成権力の役にも立たない。哲学は悲しませるのに役立つ。誰も不愉快にしないような哲学など、哲学ではない。哲学は愚劣を妨げるのに役立ち、愚劣を恥ずべきものに変える。哲学には、思考の低俗さをそのあらゆる形態において告発する以外の使用法はない。
………………
ところで、ドキュメンタリーといえば最近、原一男『ニッポン国vs泉南石綿村』と想田和弘『港町』を見た。どちらも、安っぽい「感動」とは無縁の映画である。
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