2018年6月15日金曜日

余は如何にしてスマホゾンビとなりし乎

    世の中に大きな変革が起きた時、その変化が真に「大きい」かどうか測るには、その変化が起きる前の生活をリアルに思い出せるかどうか、でわかるのではないだろうか。
 スマホがもたらした変革は、そうした意味でかなり「大きい」と言える。
 実際、スマホというものがなかった頃、どのようにしていたのか、断片的には思い出せても、それはリアルな感触を持ったものとして立ち上がってこない。
 自転車に乗れるようになった時、自分が以前どのようにして自転車に「乗れなかったか」、上手く思い出せないことに似ている。

レンプラントよりもスマホ
    私はずいぶん長い間スマホを持たなかった。
 ケータイは持っていたが、それを娘に譲ってからは、そのテの通信機器は一切持とうとしなかった。
 最初に妻がスマホを持ち、娘がケータイをスマホに買い換えて、「パパも持ちなよ」と何度勧められも拒んでいた。
 三人で外食する時に妻と娘がスマホをいじり出すと、腕組みしてそれを眺めていた。
 3.11のあと、「お願いだから持って」「なんで持たないの!?バカなの?」と半ば罵倒されつつ懇願されたが、それでも手にすることはなかった。
 なんらかのポリシーがあってのことではない。
 ただ、はたから見ていて「みっともない」ように思えたからだ。

  まだガラケーが主流だった頃、電車内で大勢の人たちがそれを取り出す様子を見て、
(平安貴族の行列か?)
などと思っていた。
 縦に長細いガラケーが、平安時代の「笏」のように見えたからだ。
 しかしそれは、ある時期を境に、どんどんスマホに替わっていった。
 スマホカバーがまだそれほど出てなかった頃、黒い長方形の物体を両手で掴んで祈るように見つめる人たちが目についた。
 それを見て私は、
(今度は位牌かよ)
と思った。
 祖父の位牌を握ってじっと見つめていた、祖母の青白い顔が思い出された。
    特に3.11のあと、節電で薄暗くなったバスの車内などでは、スマホのバックライトに照らし出された乗客たちの顔は、ホラー映画か何かのように死相が浮かんで見えた。
 それはなんだか、ゾンビのようにも思われた。
 ホラー映画の主人公がゾンビの群れに加わるのを嫌がるように、スマホをいじる死相の出た人たちの群れに加わるのを、私は潔しとしなかった。
 ただし、私はホラー映画というものをほとんど見たことがないのだが。

 ところが今じゃどうだ、立派にゾンビの仲間入りである。
 電車内で時間があれば、文庫本を手にするよりスマホをいじる時間の方が多くなってしまった。
 なんたる堕落!


 とはいえ、ゲームは一切やらず、音楽を聞くわけでもなく、メールをチェックし、ニュースサイト見て、お気に入りのブログを読み、フェイスブックでいいね!して、映画館のスケジュールを確認し、娘からのLINEに即レスしている、という程度ではあるが。いやもう、充分か。
 救いは、ちょくちょくスマホを忘れて外出してしまう、ということだ。 
 そんな時のために、常に文庫本を一冊携えているのだが、なんだか本末が転倒しているなあ、と梅雨空を仰いでため息をつく今日この頃なのである。

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