2018年4月2日月曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪【ウソつきは権力の始まり編】


「どうせ私をだますなら 死ぬまでだまして欲しかった」

 悪い男を恨みきれない女心を歌った『東京ブルース』の一節である。
 ずっとわからないままならそのウソはなかったことになるんじゃないか、という浅はかな思考がそのまま垂れ流されるているわけだが、この歌の歌詞だと「死ぬ」のはウソをついた男でもウソをつかれた女でもどちらでもかまわない、というかむしろウソつき男が死ぬことを願ってるように聞こえなくもない。
「死人に口なし」というのもウソが関わる物言いで、墓の下まで持っていけばウソがバレないとか、そういうようなことである。
 ウソをつくと、それがバレることを恐れ、その恐れはたやすく人の「死」を願うことへと行き着く。
 ウソをつかれた方も、ウソでだました相手の「死」を願うことで、自らが欺かれたウソをなかったことにしようとする。
 ウソを「なかったことにする」究極の方法は、ウソをついた相手を死なせることだ。
 それはとりもなおさず殺人であり、ウソをたくさんつけばその人数は増える。おびただしくもいじましいウソが暴かれることを恐怖する小心なウソつきは、「皆殺し」という言葉が大好きだったりする。

 殺人の動機といえば「憎悪」が定番とされるが、その「憎悪」のきっかけも元をたどれば「ウソ」に行き着くことが多い。
 殺人はウソをなかったことにするという究極のウソの形となる。これが「人を殺してはいけない」ことの理由の一つでもあるだろう。
 ウソをごまかすために「究極のウソ」を選択した者は、そのウソをごまかすためにさらなるウソを重ね、それをごまかすために「究極のウソへと至り、さらにそのウソをごまかすために……というウソの連鎖は虐殺へと至る。
 この連鎖の構図は、相手をウソつきだと詰る自分の正当性を語るためにさらにウソをつき、そのウソをごまかすために相手をウソつきだと詰り、そして……というのと同じ形を持つ。
 そうした連鎖の中から浮かび上がるのが、「権力」と呼ばれるものである。
 権力というものがつねに胡散臭さを身にまとうのは、こういったことが元になっている。
 真実は連鎖しないが、ウソは連鎖を生む。その「連鎖」が「力」となって権力を生み出すのだ。

 と、前振りが長くなったが、こうしたウソの連鎖は権力を生み出すと同時に、腐敗させる重大な要素でもある。
 考えてみれば、政府の「ウソ」を隠すために「特定ヒミツ」などというものが作られ、その「ウソを隠すウソ」を隠すために「共謀罪」が作られ、それらのウソに支えられて「安保法制」なる巨大なウソが横行している。
 これらの、大きな問題とされたものたちは、どれもウソを隠し、そのウソを連鎖させることを目的としていることがわかる。

 大体のウソは、「都合の悪い真実」を覆い隠すために吐き出されるが、「権力」の場合は元々の元を手繰っていくと、権力者が「無知で無能で恥知らず」だという「真実」に行き着く。旧ソ連のジョークでいう「国家機密」というやつだ。そいつはCO2が増大する問題よりも、さらに奥に鎮座している。
 そうした権力者を愛し、権力を肯定する人間は、おおよそ自分自身の「無知」か「無能」か「恥知らず」を隠そうとしているので、その「連鎖」に同調していることが多い。
 ウソをついたことがない人間はいないから、誰もが真実ばかりを素直に愛することができないし、ついつい楽チンなウソに流されがちになるけれども、ウソが連鎖するときにそれを断ち切らなくては、権力は釣り上げたシャコのようにたちまち腐敗してしまうのだ。
 
 とまあいうわけで、公文書改竄をさらなるウソでごまかそうとすることを、なぜ放置してはいけないか、そしてなぜそれを当事者でもないのにごまかしたがる人たちがいるのか、についてはだいたい了解できたと思う。
 次回は、真理について語ろうとした人たちのウソについて、を。


不都合な真実 (字幕版)

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