2018年5月22日火曜日

No to mention, unsportsmanlike, HAHAHAHA!! とレプリカントは笑った

7'25"辺りのセリフ

    タイトルは映画『ブレードランナー』のセリフから。日本語字幕は忘れてしまったが、意味としては「まるっきりフェアじゃないな、ハハハハ!」というところか。ベタに直訳すると「言うまでもなく、スポーツマンらしくない。ハハハハ!」といった感じ。
 そう、「スポーツ」は公正であることの代名詞なのだ。

 スポーツにおける「公正」とはなんだろう。
 やはりお互いにルールを守り、全力を尽くして戦い、勝敗について不服を口にせず、敗者は勝者を称え、勝者は敗者をねぎらう、と。
 競技に優勝劣敗はつきものであり、スポーツはそれを明らかにすることが究極の目標である。その目標がない運動は、ただの遊戯とされる。
 しかし、その「公正」がずーっと昔からそのままの「公正」だったかというと、ちょっと違ってくる。

 例えば古代ローマの戦車競走なんか、やる前から勝者が決まっていた。映画『ベン・ハー』のような息詰まる展開などは、あんまりなかったのだ。
 昔々のスポーツ以前の「競技」とは、「みんなが強いと思っている者がやっぱり強い」と確認するためのもので、その「競技」の結果によって強弱が決定づけられるものではなかった。
「そんなの八百長じゃん!」というのは現代の感覚で、昔は「みんなが強いと思ってる」者が勝てなかったら、その試合自体がおかしいとされた。
 日本の大相撲を見ていれば、その感覚はある程度わかるだろう。相撲とは横綱が勝つべきものであって、横綱以外が優勝するのはよっぽどのことである。
 あらかじめ勝つ方が決まっているなんて、見てて退屈にならないかと心配する人もいるが、ところがどっこいそんなことは全然ないのだ。むしろ逆に、そうでない方が余計なストレスを感じるという人たちが多数派で、できればガチンコの勝負なんてものは避けてしまいたいと願っていたりする。あくまでこっそり内心で、ではあるが。
巨人、大鵬、卵焼き
    だいたい日本人はつい最近まで、野球は巨人が勝って、相撲は大鳳が強くて、卵焼きが美味しいのが当たり前だった。ついでに、プロレスは力道山とジャイアント馬場が必ず最後に勝つし、キックボクシングは沢村忠が真空飛び膝蹴りでキックの鬼だ。
 そういうのを疑うは、水戸黄門の印籠とかウルトラマンのスペシウム光線とか、そうしたことを疑うのと同じようにみなしていた。

 とにかく八百長だろうがホームタウン・デシジョンだろうが、みんなが勝って欲しいと願う側を勝たせなければならない。
 だが一方でスポーツは公正でなくてはならない。公正であってこそ勝利が輝くというものだ。
 じゃ、どうすればいいか。
 ズルをする。できればまあ、公正な範囲で。
 そりゃ日々の研鑽努力も大事だが、それに加えてできる限り相手方の情報を集め、弱点を突くことも同じくらい大事なのだ。
 今じゃ高校野球だって、ビデオ片手に相手チームの情報収集に余念がない。そんな下調べなど一切抜きでぶち当たった方が正々堂々としてるんじゃないか、というのは観ている側の勝手な理屈である。勝負している側はとにかく勝たなきゃならんのだから、悠長なことは言ってられない。多少なりせこい手を使っても、勝てばすべてが許される。
 公正な範囲でズルしたくらいじゃ勝てない時はどうするか。勝負は時の運だ、などと悟りすましたような顔で諦める、というのが正しいあり方だ。しかし、それでもどうしても、何が何でも勝たなきゃならない大人の事情が生じてきた場合は?
 そこはやはり、公正な範囲を逸脱する形でズルをする。バレなきゃ無かったことと同じなるから、バレないようにすればいい。
 とにかく勝ちさえすれば、「みんなが強いと思ってくれる」から、「強いものが勝つのが当たり前」なので、多少のズルなんか問題にならなくなる。「勝てば官軍」というのは、そういうねじれた論理の結果として生まれてくる思考である。
 
 そう、「勝負に執着する」というのは、「とにかく勝ちたい」という欲だけでなく、「みんなに強いと認めて欲しい」というのがある。
「みんなが強いと思うもの」とは「正義」である。
 つまり「正義は必ず勝つ」し、必ず勝つのが「正義」なのだ。
 こうして、「公正」と「正義」は別なものになってくる。

「正義」を「公正」よりも優位に考えたがる人は、「勝つ」ことがすべてに優先する。「勝つ」ためならどんなズルもするし、嘘もつく。
 そして、そういう人の周囲には、必ず同じメンタリティの人が群れ集っている。
 群がる人々は、自らの認める勝者が、どんなに嘘をつこうが、どんなにズルをしようが、それが正しいことだと言い張る。
 それは「みんなが強いと思っているものが勝つべきだ」という、現代では八百長と名付けられる思考法から来るものだ。
 古えの伝統をトリモロシ、いや取り戻そうと主張し、力こそが正義であるかのような価値観を振り回す輩が、概ね「ずるい嘘つき」であるのはそうした事情によるのである。

細野晴臣、スポーツマン

 
 今回、二つの事柄の共通する部分についてだけ書いたので、それぞれの事柄についてはあえて触れなかった。

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