2018年9月13日木曜日

なんでそんなにゾンビが愛されるのか

    今日、巷で評判の『カメラを止めるな!』を観ました。
 感想としては、「ゾンビがくるりと輪をかいた」というか、「子鹿のゾンビはかわいいな」というか、そんな感じでした。珍しく一家三人で観たんですが、家族で鑑賞するには最適の映画ですね。ぽん!(←せっかくなんでネタバレ)



 さて、ホラー映画といえばゾンビ、ゾンビといえばホラー映画、最近は裾野も広がってきて『高慢と偏見とゾンビ』なんてのもあるそうで。観てませんが。ちなみに、元ネタになってるオースティンの『高慢と偏見』って、翻訳タイトルは硬すぎるんじゃないかなあ。原題は”Pride and Prejudice”で頭韻踏んでるわけだし、「思いあがりと思いこみ」ってタイトルの方が内容にも良く合ってるんじゃないかと思うんですが。それこそ「思いあがりと思いこみ」かな?
 話が逸れましたが、とにかくゾンビというのはなんでこんなに愛されるのか。
 そりゃあもう、多くの人がゾンビってのに普段からそこら中で出会ってしまっているからでしょうね。
 
 普段に出会うゾンビとは何か?
 それは「嫌な思い出」です。
 トラウマというほどではないのに、ほんのちょっぴり自分のプライドのささくれに触れたような出来事が、いきなり心の奥底から風呂場の屁のように浮かび上がり、自分自身がその悪臭に悶絶してしまう、というアレです。しかも困ったことに、それがまったく関係ないときに脈絡なく現れるので、トラウマのように関連する刺激を遮断すれば症状が軽くなる、ということもありません。だいたい内容はわざわざ語るのもおこがましいような、くだらなーい、しょぼくさーい、いじましーい事柄で、自分がいかに幼稚なプライドに振り回されながら生きているかが現れていて、そんなこと懺悔されても聞かされる方もうんざりしてしまうでしょう。おまけに外からは何が起こってるのかまるっきりわからないわけで、思わず「ううっ」とか「げ」とか「はげ」とか「死ね」とか「こまねち!」とか声が漏れたりしようもんなら、半径五メートルくらいの周囲から人が飛びのいても文句はいえません。
 これ、まったくそんなことがない人もいらっしゃるようですが、覚えがある人は張子のが地震にあったみたく、高速でうなづくようなことなんです。遠藤周作がこれを元にして短編を書いてましたっけ。タイトル忘れましたが。遠藤周作はそんなとき、目の前のテーブルがあればひっくり返したくなるそうで、その衝動を抑えるのに一苦労だとか。
 こういう「ゾンビな思い出」に普段から襲われている人は、幼稚なプライドで自分自身を苦しめています。何が「幼稚」かというと、自分がちょっとでも不快な思いをしたなら、全世界が土下座して謝罪しなくては満足しないようなところです。世界の中心でなんかを叫んでいるようなもんで、そういう「幼稚さ」ってのは三歳くらいで捨てとくもんですが、捨てそこなっちゃってかけらがこびりついてるんですね。
 そういう人がゾンビ映画なんぞを見ると、自分に損害を与える嫌なやつも、自分のプライドを傷つける立派な人間も、自分を叱りつける家族も、いまいち信用できない恋人も、ぜーんぶゾンビになって自分だけまともに人間でいるんだから、そりゃあすっとしますわな。
 こうして考えてみると『高慢と偏見とゾンビ』って、なかなか興味深いものがありますな。観ませんが。

「記憶」は人を縛るものです。
 名画『市民ケーン』にこんなセリフがありました。
………………
よく記憶しとるよ。記憶ってのは呪いなんだ、お若いの。すべての人類に負わされた大きな呪いだ。記憶は、古い古い友人でもあるんだがね。
I can remember everything. That's my curse, young man. It's the greatest curse that's ever been inflicted on the human race. Memory - I was his oldest friend.
………………
 このような「呪いとしての記憶」、「嫌な思い出」or「ゾンビな思い出」ってのは、何も個人だけに限らないわけで、国家レベルでもそういうことはあるわけですが、そうした国家レベルのゾンビな思い出を振り払おうとすると、某大統領の演説会みたいに変な格好で武装した連中がうろうろしたりするようになるわけで、リアルってのはゾンビ映画なんかよりずっと恐ろしいな、と思ったりするのであります。

 ちなみに、今回私、ゾンビ映画というものを初めて観ました。
 普段そういうのはさっぱり観ないんですよ。怖がりなんで。


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