2018年7月7日土曜日

オウム真理教の背景としての「日本」

尊師麻原は我が弟子にあらず―
オウム・サリン事件の深層をえぐる
    なんか、平成の終りが見えてきて、慌てて「大掃除」をしているらしい。「オリンピックちゃんが来る前に、お部屋をキレイにしなきゃ!」ということもあるかもしれない。
 とにかく、長年下駄箱の影でホコリをかぶってどす黒くしなびた幸福の木のように、オウム真理教の面々は「おかたづけ」されてしまった。



 オウム真理教については、本家の方で、三回ほどエントリーを書いている。

オウムオウムで日が昇りオウムオウムで日が暮れた世紀末でありました

どうせわたしをだますなら?

高学歴でもオウムにひっかかるのは全然不思議でもなんでもないということについて


 とりたててここに付け加える感想もない。
「真相が闇に葬られた!」という人もいるけど、しつこいくらいに裁判を繰り返し、死刑の判決が出た後、十年以上たってもなんら新事実が出てこなかったということは、みんながドキドキワクワクテカテカしちゃうような、「社会のどす黒い闇」みたいな「真相」はなかったんだと思う。私もけっこう期待してたんだけどね。

 しかしそれでもオウムについて「真相はこうだ!」と語りたがる人は大勢いて、それに同調する人もさらにまた大勢いる。
 なんでか。そのほうが公安調査庁が飯の種に困らないからか。そういえばテレビで、公調がオウムの後継団体に立入検査する様子が流れてたけど、あれってテレビが前々から知らされてたってことだよねえ。
 ともかく、「オウム事件はまだまだ終わらんよ!」と言いたがる人たちは、どのような心理からそれを口にしているのか。
 それはやっぱり、オウムが自分たちと同じ「背景」から生まれてきた、ということを認めたくないのだろう。
 確かにオウムは「異常」な事件ではあるけど、「異質」な事件ではない。
 ちゃんと、日本の社会を「背景」として生まれてきた事件だ。
 だから、平成の日本を過ごしてきたほとんどの日本人は、オウム真理教と同じ「背景」を持っている。
 首謀者が死刑になったからといって、事件はなかったことにならないのは確かだけれど、何か自分たち日本人とは異質なものがあるような事件ではないのだ。
 
 オウム真理教といえば、個人的に思い出すのは吉本隆明だ。
 高名な思想家である吉本は、麻原彰晃を「仏教系の人の中では世界有数の修行者」と高く評価していた。
 それは、サリン事件の後さらに強調された。 
吉本隆明が語る親鸞
 吉本が本当に語りたがったのは親鸞であり、親鸞の持つ狂気であり、その狂気の元となった日本の国の根底に流れる欲望である。
 その文脈からいえば、吉本にとって麻原を評価するのは当然のことだったのだ。
 
 ロクでもない事件ではあったのだが、「帝銀事件」などに比べれば、なんとも底の浅い事件だった。
 でも、冬くらいには「これが真相だ」みたいな本が、馬に食わせるほど出版されるんだろうなあ。

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