2016年3月13日日曜日

『秋刀魚の味』と少子化

秋刀魚の味
 ニューデジタルリマスター版
    小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』を観た。以前観た時は大学生だったから、実に三十年ぶりである。デジタルリマスターで画面と音がすっきりして、まるで別の映画のようだった。映画が創られたのは私が生まれた年だが、当時すでにとんかつ屋に店員を呼び出すボタンがあることに改めて気づいたりした。(以下ネタバレがあります)

菅原通済、新しい宝石
 (カラーブックス 100)
    すなわち、映画の舞台としての日本は高度成長真っ只中というわけで、主人公もその同級生たちもぐんぐん出世している。そして、出世した男たちが往時を偲んで、恩師を囲んだ同級会を催す。
   このシーンでメンツの中に菅原通済の顔が見える。芦田内閣の黒幕であり、俳優で文筆家(やたら著作がある)であり、寺山修司の結婚を面倒みたりもした男だ。
 話が横に入ってしまったが、この同級会に招かれた「ひょうたん」とあだ名される元漢文教師は、どんな事情があったか落ちぶれてラーメン屋をしている。演じているのは、水戸黄門になる前の東野英治郎で、この演技により毎日映画コンクール助演男優賞を受けている。主人公の友人が「ひょうたんのやつ、ちゃんソバ屋やってるなんて」と口にする。ピー音をかぶせずオリジナルを尊重するのはいいことだ。当時はまだそういう空気が色濃くあったのだろう。
 また話が横入りしたが、この「ひょうたん」は早くに妻を亡くし、娘(杉村春子)を嫁にやろうとしなかったため、娘はすっかり嫁き遅れになっている。
 主人公にも年頃の娘があり、妻を亡くしたために家の面倒を全部見ている、という似たような状況があって……

 映画では娘を嫁にやらなければつらいことになり、嫁にやったらやったでまたつらい、という父親というものの置かれた状況がむき出しになっている。普通、それは「妻」という存在によって覆い隠されているが、妻を早くに亡くしたことで父親が実は孤独な存在であることが暴かれている。
 小津安二郎がそれを意図したかどうかはわからないが、この映画には「家族」こそが人間を「独り」にするのだ、ということがよく現れている。
 女性が良縁を得て二四歳(クリスマスケーキってやつね)までに片付いていく、という当時の風潮をじっくりと映しながら、映画の中では「家族」というものが必ずしも人を幸福にしない、という将来を先取りしているのだ。
 それが、この映画に時代を超えた普遍性を与えている。
 小津安二郎は生涯独身だったが、「家族」というものに対して、非情なまでに客観的になっているようだ。
 当時、まだ世の中は「人口爆発」が社会問題となっていたが、小津だけは将来の「家族」の解体と、人口の減少を予期していたようにも見える。
 この映画が柔らかな手つきで暴いたように、「家族」が人を過剰に孤独にするのならば、人々はそれを意志的に避けようとし、それが結果として少子化を引き起こすことになるからだ。

 なお、今回もまた娘を連れて行ったわけだが、娘の感想は
「これ、秋刀魚の味じゃなくて、鱧の味じゃない?」
「良い縁談あったら、遠慮しないでね」
 であった。
 縁談とか無理なんで、さっさと彼氏を見つけてくれ。


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