その中に、『古本の巻』という一章が立ててあって……
……………
……岩波書店主人岩波茂雄氏は出版をはじめる前には古本屋をやっていた。古い『思潮』という雑誌の広告欄にその時分取扱っている本の名と値が出ているが、その時分の岩波書店主人古本を買いにお客のところへ行く、そしてそこに自分の好きな本乃至は欲しい本があると、もうそれは矢鱈滅法の高値で買い上げて来たものだ、それで古本屋として岩波はとうとう成功しなかった。
岩波茂雄氏は人も知る如くここの大学(注:東大)の哲学科の選科出身、このごろは大学での出版屋が流行る。…………しかし岩波書店主人の先例があって、古本屋丈けは学士様では経営ができぬと相場が決った。それは古本屋が出版屋に較べて文化への貢献が劣るものというためでは決してなく、古本屋の主人というものは書物の値打ちを踏みにじっても平気なくらい猛烈な営利心が強くなければならぬのだからその条件には適せぬためなのである。
…………
うーん、これを書いた人は古本屋によほどの怨みがあると見える。
この後、「古本屋にいかに高く売りつけるか」という方法が書かれてたりするのだが、引用するのはやめておこう。幼稚な方法だし、すぐバレるのだが、マネされると鬱陶しいので。
しかしねえ、「書物の値打ちを踏みにじっても平気なくらい猛烈な営利心」って、あのね、出版だって営利心なしにはできないだろうに。まあ、岩波茂雄は出版の方も大変だったみたいだけどね。もうけとか、全然考えてなかったらしくて。
だいたいそんなにすさまじい「営利心」があったら、古本屋なんかやってないっての、まったく。
時代が平成になってもこういう言い方をする人は多いので、慣れたくないけど慣れてしまっている。がしかし、大正の頃からこの調子だったんだねえ。やれやれ。
タイトルに書いた「好きじゃできず嫌いじゃできず中途半端じゃなおできず」ってのは、昔からある極道の言い草だ。極道ってのは、ヤクザだけじゃなくて「道」を「極」める人のこと。
仕事にに好き嫌いを持ち込めるなんてのは、ゲームとかファンタジーなんかの中にしかない。
「自分の好きな本乃至は欲しい本があると、もうそれは矢鱈滅法の高値で買い上げて来た」なんてことやってたら、そら保たないのは当たりまえだ。
それでも人は古本屋にこう語りかける。
「よっぽど本がお好きなんですね」
そして私はこう答える。
「ええ、まあ、そうです」
だからってどうしたって話なんだけどね。ふう。
岩波茂雄伝 新装版 |
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