アーノンクール指揮 バッハ:マタイ受難曲 |
「クラシック」というのは日本では「古典」と訳される。
それは「素晴らしい」というニュアンスもありながら、古臭いとか退屈とか無駄に偉そうとかお高くとまってるとか、そういう意味あいで語られることも多い。
クラシックclassicとは、本来「普遍的なもの」「時代を超えるもの」「変わりない価値を持つもの」ということである。
しかし、音楽におけるクラシックは、戦後その名を聞くだけで毛嫌いする人間が増えた。残念ながらこれは日本だけでなく、世界中の現象のようだった。
この流れに待ったをかけたのが、帝王カラヤンである。
好き嫌いは分かれるし、実際私も好きではないが、それは功績として認めざるをえない。
カラヤンによって、クラシック音楽は世界中どこに行ってもその価値が通用する「通貨」となった。それは実際、巨額のマネーを動かし、多くの人に富を分け与えた。レコード会社とか、楽器屋さんとか、ソニーとか。
目覚めよと呼ぶ声あり~ バッハ:カンタータ集 第29番、第61番&第140番 |
それはクラシックをクラシックではなくする、ということだった。
クラシック音楽を世界中に普遍的な価値を持つものではなく、ユーラシア大陸の西に突き出た半島の中央部で発達した民族音楽とし、時代を超えることなく、かつての荒々しい音色を再現して、その楽曲が登場した当時の衝撃を復活させた。
当然、業界からは大きなブーイングを持って迎えられた。
しかし、やがて「通貨」よりも「金貨」を喜ぶ人が増え、二十世紀を代表する「巨匠」となった。
アーノンクールの演奏は、どこか血の匂いがする。
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そうした野獣の血の生々しさもまた、「金貨」の持つぬめるような輝きとなってその演奏に現れている。
冒頭に掲げた『マタイ受難曲』などは、まるで「予告されたイエス・キリスト殺人の記録」のようである。
それこそが「クラシック本来の姿だ」と彼は信じ、その教えは海を越えて多くの人たちに支持された。
そう、真に「クラシック」であるものは、実はローカルなものなのだ。(と、タヴィアーニ兄弟も言ってたっけ)
アーノンクールはクラシックに大きな遺産を置いていった。
しかしそれは遺産であると同時に、難解な宿題でもある。
「クラシックとは、本来の意味で、何ものなのか?」という、新米インタビュアーが口にしそうな質問のようでいて、いつかは誰かがとりあえずにでも答えなくてはならない、そんな類の問いである。
R.I.P.
バッハ、カンタータ全集 |
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