2016年3月7日月曜日

クラシックという名づけられた通貨を焼き滅ぼし金貨に変えたアーノンクール

アーノンクール指揮 バッハ:マタイ受難曲

「クラシック」というのは日本では「古典」と訳される。
 それは「素晴らしい」というニュアンスもありながら、古臭いとか退屈とか無駄に偉そうとかお高くとまってるとか、そういう意味あいで語られることも多い。
 クラシックclassicとは、本来「普遍的なもの」「時代を超えるもの」「変わりない価値を持つもの」ということである。
 しかし、音楽におけるクラシックは、戦後その名を聞くだけで毛嫌いする人間が増えた。残念ながらこれは日本だけでなく、世界中の現象のようだった。

 この流れに待ったをかけたのが、帝王カラヤンである。
 好き嫌いは分かれるし、実際私も好きではないが、それは功績として認めざるをえない。
 カラヤンによって、クラシック音楽は世界中どこに行ってもその価値が通用する「通貨」となった。それは実際、巨額のマネーを動かし、多くの人に富を分け与えた。レコード会社とか、楽器屋さんとか、ソニーとか。
目覚めよと呼ぶ声あり~
バッハ:カンタータ集
第29番、第61番&第140番
    その「通貨」を焼き滅ぼし、昔ながらの「金貨」に変えたのがアーノンクールだった。

 それはクラシックをクラシックではなくする、ということだった。
 クラシック音楽を世界中に普遍的な価値を持つものではなく、ユーラシア大陸の西に突き出た半島の中央部で発達した民族音楽とし、時代を超えることなく、かつての荒々しい音色を再現して、その楽曲が登場した当時の衝撃を復活させた。
 当然、業界からは大きなブーイングを持って迎えられた。
 しかし、やがて「通貨」よりも「金貨」を喜ぶ人が増え、二十世紀を代表する「巨匠」となった。

 アーノンクールの演奏は、どこか血の匂いがする。
ジビエ 北海道特産 
えぞ鹿もも肉 冷凍1.0kg
    牧場で大切に育てられた牛で作った上等のブフ・ブルギニオンではなく、最近我が家の食卓を賑わしている、鹿や猪などのジビエとも言えないような料理である。(実際、鹿はハヤシライスにすると、牛肉よりも美味い)
  そうした野獣の血の生々しさもまた、「金貨」の持つぬめるような輝きとなってその演奏に現れている。
 冒頭に掲げた『マタイ受難曲』などは、まるで「予告されたイエス・キリスト殺人の記録」のようである。
 
 それこそが「クラシック本来の姿だ」と彼は信じ、その教えは海を越えて多くの人たちに支持された。
 そう、真に「クラシック」であるものは、実はローカルなものなのだ。(と、タヴィアーニ兄弟も言ってたっけ)
 
 アーノンクールはクラシックに大きな遺産を置いていった。
 しかしそれは遺産であると同時に、難解な宿題でもある。
「クラシックとは、本来の意味で、何ものなのか?」という、新米インタビュアーが口にしそうな質問のようでいて、いつかは誰かがとりあえずにでも答えなくてはならない、そんな類の問いである。

R.I.P.

バッハ、カンタータ全集

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