2016年3月5日土曜日

選挙とエコロジーと経済学

 こうみえても投票には毎度毎度行っている。

「劣悪な政治家は、投票しない善良な市民によって支持されている」

…なんてフランクリンさんが脅かすもんで。やーねー。
 しかし一方で、選挙なんてもんにはまーったくぜーんぜんさーっぱり関わろうとしない人もいる。じゃあ、そういう人が社会的によろしくない人かというと、そうでもなかったりする。

 ある日アメリカのとある町の投票所で、二人の経済学者がばったりでくわした。
「よ、よう……」
「お、おう、お前何しにきたの?」
「何って、……いや、なんか、かみさんに無理矢理連れてこられちゃってさあ」
「ああ、そう、そうね。俺も俺も」
「うんやっぱそうだよな」
「そうそう」
「ま、このことはお互いに……」
「そうだね、ないしょってことで……」
「じゃ、そういうことで」
「そういうことで」
 とまあ、こんな具合にぎこちなく別れた。

 なぜ二人はこんなにぎくしゃくしていたのだろううか?


選挙の経済学
 それは、経済学的に

「合理的な人間は投票するはずがない」 

 からなのだ。
 パトリシア・ファンクって経済学者が言ってるんだが、もともと政治経済学では、「人はなぜ投票するのか?」てのは重要な疑問だったりするそうだ。

 そう「民主主義なら当たりまえー」な話が、経済学では「説明がつかない、不合理で不可解な行動」になってしまうのだ。だって、清き一票なんか投じたって、何が変わるってわけでもないし。なんでわざわざ労力使って無駄なことやんなきゃなんないの?インセンティブで動くはずの人間なら、投票なんて「非経済的」なことなんかしないだろー、ってわけだ。
 だから、選挙なんてもんにはまーったくぜーんぜんさーっぱり関わろうとしない人の方が、経済的には合理的なのである。なんだこりゃ。どーするフランクリン。

 世間にはよく「民主主義」を上から目線で見下して溜飲を下げるタイプの評論家先生がいらっしゃるのだが、そういう人はもれなく「経済的」というイデオロギーにそって考えるようになっている。やや無意識に。
 そしてそういうセンセイ方が、同じく口をそろえるのが、「エコロジーなんか偽善だ!」というやつだ。
 そりゃそうだ、エコロジーなんて、経済的合理性皆無だもんねえ。地球に優しいけど懐に優しくない割高なECO商品を買ったって、個々人にはなんの利益もない。そんなものは不可解で非合理的な行動である。そのような不経済なものは許しがたい、ということなわけだ。
 しかしまあ、こういう「経済学的思考」てのがイデオロギーでしかない、てのは、経済学者とその周辺でドンジャラホイと踊ってる連中以外なら、まあ薄々とは気づいているものだ。

 で、こうして考えてみると、民主主義的に選挙で投票するってのとエコロジーって似てるなあ、と。
 どちらもウソ臭く思えるのは、「経済的合理性」にかなっていないからだろう。でも、そんな合理性なんてイデオロギーにのっかったものでしかないわけだから、「ウソ臭い」といってるほうも負けず劣らずウソ臭い。なんか「馬鹿っていうやつが馬鹿」みたいな話だね。

 これは「経済学的思考」がイデオロギーでしかない、という証左
の一つになると思う。

「馬脚」ってのは、けっこう身近なところに現れるもんだね。


注:このエントリーは以前書いたものを少し書き足して再録したものです。

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