2016年3月6日日曜日

原稿を「書く」という行為が先に滅んでゆくのかもしれない

 数年前鬼籍に入った他称「天才」エディター安原顕は、村上春樹と仲違いして、もっていた村上の生原稿を古本屋に売り払ってしまったそうだ。さすがに村上春樹も激怒したそうだが、私は別な感慨を持った。
 (へー、村上春樹って、まだ原稿に書いてたんだ……)
 最近の作家は、特に流行作家である村上春樹などは、パソコンで文章書いてるもんだとばっかり思っていたのだ。
 いまどき、電子データでないと嫌がる編集者も多いしね。データでもらった方が編集作業も早くなるし、なんといってもらくちんだ。



 今、ペンを持って文章を書く、ということをどれくらいの人がしているのだろうか。
 そして、作家と呼ばれる人たちの中で、原稿用紙に字を書いている人はどのくらいいるのだろう。とりあえず、こないだノーベル文学賞に輝いた莫言はそうみたいだ。
 現役の日本の作家では、浅田次郎が知られている。

 アメリカだと、ウィリアム・スタイロンスティーヴン・キングは、紙にペンで書き付けていると聞く。だから映画「スタンド・バイ・ミー」のラストで、キングとおぼしき作家がタイプライターを使っているのはフィクションということになる。 ちなみにタイプライターで書かれた最初の小説は、ヘミングウェイの『老人と海』だったと言われている。ヘミングウェイはこれでノーベル文学賞を受けた。

「タイプライターの登場で小説の文体にどのような変化があったか」調べた人がいるそうだ。それがどのようなものだったか、読んだはずだが忘れてしまった。とりあえず、原稿の生産速度は上がり、小説家の持病は書痙から腱鞘炎になったのは確かだろう。
 私も今こうしてパソコンで文章を書いているが、あきらかに文体に影響があると思う。とにかく、縦書きと横書きってだけでも違ってくる。
 最近の作家で面白いエッセイを書く人が減っているのは、縦書きで表示される文章を横書きで書いてしまっているからではないだろうか。文体が変わると思考の流れが変わり、それは語り口に影響して面白い話もつまらなくなる。内容が変わるわけでもないのに、どこか後味がおかしくなる。なんというか、湯のみでコーヒーを飲んでいるような違和感を覚えるのだ。

 書いていて原稿が電子データになると、なんだかつまらなく思えたりしないのだろうか。だって、必死にない知恵振り絞って書いた原稿が、たった数メガにもならないんだから。原稿用紙であれば、それがどっさりと後に残る。データはちょいと間違うと一瞬で消滅して元に戻らないが、原稿はじゃまっけなくらいわさわさと残ってくれる。
 それに、のちのち古本屋が生原稿を売る、ということもできるからね。


注:このエントリーは以前書いたものを少し書き足して再録したものです。

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