2016年3月12日土曜日

また再び『東京物語』が撮られることはないだろうか

古井由吉、東京物語考 
(同時代ライブラリー)
 先日、娘を連れて小津安二郎の『東京物語』を見た。デジタル・リマスターとやらで、洗ったようにきれいなな画面になっていた。
 この映画についてはいろいろな人がいろいろなことを書いていて、屋上屋を重ねることもないかと思ったが、どうしても書いておきたいような衝動が出てきてしまったので、ちまちまとメモしてみたい。(以下、ネタバレがあります)

 うちの娘の率直な感想の中に「母親が死んですぐ形見分けを言い出すのはひどい」というのがあった。杉村春子の名演技もあって、あのシーンが印象に残る人は多いらしい。古井由吉も『東京物語考』でこのように述べている。
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 杉村春子の扮する中年の長女が、母親の葬儀も落ち着いた頃の或る日、郷里の家で一家揃っての食事の最中に、飯を掻き込んでいた箸をいきなり止めて、もどかしく宙をつつくようにしながら、ああ、あれあれ、お母さんのあの帯をいただくわ、と高っ調子に言った場面が印象に残った。十六、七歳の私にとっても、親族の女たちの間で幾度も目撃した光景のような気がして、まことに得心のいく場面ではあったが、それでもまた一方で、ああもさばさば行くものか、もうすこし粘りはしないか、という訝りはあった。
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 この後、香川京子演じる次女京子がこの行為をなじり、「嫌なことばっかり」と言う。すると、原節子演じる次男の未亡人が、にっこり笑って「嫌なことばっかりよ」と返す。この時の原節子は、本当に凄みがある。
 母親の突然の死、という出来事に直面し、映画の中の家族はその「機能」を正しく発揮する。そして、小津安二郎は淡々とその「機能」を映し出してみせる。
 家族の機能とは、人の死という突然の欠落を埋めることで、その死を共同体の側に登録しなおす、ということにある。いわば「再生」である。この映画を「家族の再生の物語」とするのはやや筋が違っていて、家族の機能として元々「再生」というものがあるのだ。
 そしてそれは具体的に、「財産」を引き継ぐという行為になって現れる。
 つまり「形見分け」という行為は、家族の中に「死」を引き受けるためのもので、いわば手品のタネのようなものだ。手品のタネ明かしがなされると、手品を信じたいものは違和感を覚えるが、そのタネは確かにその通りなので受け容れざるをえない、ということになる。この映画での長女が要求したことは、至極当然のことなのだ。
 そのことを知らぬ若者(作中の京子とかうちの娘とか若き日の古井由吉とか)はそれを素直に嫌悪し、知る者はただため息をつく、という次第となる。
「死を登録し直す」というのは、共同体にその記憶を与けることとなり、個人にとってそれは「忘却」となって現れる。
 ラストで、原節子演じる未亡人は、亡き夫のことを「どんどん忘れてしまう」と涙を流す。それに対して笠智衆演じる父親は「それでええんじゃよ」とうなづいてみせる。
 故人についてどんどん忘れ、日々の生活に追われるのは「家族」が正常に機能しているからこそである。だから「それでいい」という肯定は、ただのなぐさめではなく本当に「それでいい」ということなのだ。

東京物語 
ニューデジタルリマスター
東京物語』は一九五三年に発表された。太平洋戦争が終わって八年である。
 作中で父親は旧友と酒を酌み交わし、「戦争は二度とごめんだ」と言う。
 未亡人の夫は戦争で死んでいる。
 この「物語」は、いわば巨大な悲劇の後日譚であり、余話である。
 震災から五年が過ぎたが、その「余話」が語られることはあるだろうか。また再び『東京物語』が撮られることはないだろうか。



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