これほどまでに多くの読者を魅了しつつ、かつまたよりいっそう多くの挫折者と、さらにまた多くの読んだフリをしている人を生みだした小説はないだろう。源氏物語だって、読み切った人間はもっと多いはずだ。そういえば、若き日のアナイス・ニンは、源氏物語の翻訳を読んで「これはフランスの心理小説の稚拙な模倣だ」と日記に書き付けたそうだが。
『失われた時を求めて』には当時のスノッブな日本趣味がそこここに散見され、サロンでは日露戦争の行方も話題になる。
さて、今も仰ぎ見られる文学の金字塔の新訳が、現在二種類同時に刊行中で、ファンはほくほくと顔がゆるんでしまうのだが……
ここで前々から感じているこの小説の翻訳への不満と言うか、もし「超訳」するならこうしたいなあ、という叶わぬ願望を書き付けさせてもらいたい。ま、こういう勝手が書けるのもブログの醍醐味だよね。
ヴァン・ドンゲンによる挿絵 |
プルーストはこの小説の中で、私であって私でない、jeという主語を「主」語 ではなく、ただのアリバイとして使用しているように感じる。てか、使わないとしゃーないから、仕方なく使ってる感じがするのだ。
なので、せっかく一人称を必要とすることの少ない「日本語」というものに翻訳するのだから、できるだけ「私」をとっぱらってしまった方が良いんじゃなかろうか、そうしたなら墓の下のプルーストもきっと喜んでくれるに違いない、などという妄念を抱き続けているのだ。
せっかくなのでちょっとやっつけでやってみたい。まず、お手本として井上究一郎訳の冒頭部分をあげてみよう。
…………
長い時にわたって、私が夜なかに目をさまして、コンブレーを追想していたときに、そこから私に浮かびあがって見えたのは、そんなふうに、濃い闇のまんなかにきり取られた一種の光った断面でしかなく、それは燃え上がるベンガル花火か、それともなにか電気による照明のようなものが、一つの建物に反射し、建物の他の部分は夜のなかに沈んだままでありながら、
…………
で、単純に「私」をはずしてみる。
長い時にわたって、夜なかに目をさまして、コンブレーを追想していたときに、そこから浮かびあがって見えたのは、そんなふうに、濃い闇のまんなかにきり取られた一種の光った断面でしかなく、
同じくヴァン・ドンゲンによる挿絵 |
暇があったら、英訳(名訳の誉れ高い"Remembrance of Things Past")から超訳してみたいなー、と思う。思うだけ。思ってるだけなんであれこれ言わないで。お願い。
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