2013年11月8日金曜日

リアルという名の妄想とりあえずの〆もしくは女王様の裸踊りPart...いくつだっけ4くらい?

 何日かに分けてぐだぐだ書いてきたのは、「これまでリアルだと思われてきた経済ってものが、なんだかそうじゃなくなってきた」ということを示すためだ。
 ほんとはまだまだ書き足らないが、あんまり長くするのもなんなので、ここらへんで「どうしてそんなことになっちゃったのか」ということを述べておきたいと思う。


 経済てのは「欲望」で動いてる。
 これは、どんなえらーい経済学者だって否定できないところだ。
 そして、欲望ってのは、これ以上無いくらいリアルなものだ。
 だからそれを分析する経済学は、長いこと「社会科学の女王」として君臨してきた。あ、今もしてんだっけ。
  ところで、この欲望なんだけど、これが登場すると「人間」が分裂することになっている。「欲望するもの」と「欲望されるもの」に。大昔は「支配するもの」と「支配されるもの」にわかりやすく別れてたんで、みんなそんなに悩ましく思うことも少なかった。しかし、社会が複雑になるとともに、その分裂は内面化された。
 個人というものが確立してくると、赤ん坊の頃はただの「欲望のかたまり」だったものが、成長して他の欲望する主体を認めるとともに、「欲望するもの」と「欲望されるもの」の分裂を抱え込むわけだ。
 そして、この「欲望するもの」と「欲望されるもの」は、まったく非対称的で、矛盾した存在なのだ。え??って感じだけど、この辺詳しくやってるときりがないんで、そのまま飲込んで。お願い。
 とにかく、このちぐはぐなものをなんとかまとめあげないと、社会がぐちゃぐちゃになってしまう。今まで宗教がそのまとめ役を果たして来たけど、だんだん間に合わなくなってきた。
 なんでかというと、お金を使う人が増えて、お金の存在感がこれ以上なく増して来たから。別にニーチェが「神は死んだ」と言ったからじゃない。
 そこでヘーゲルなんかは、弁証法的に止揚するてなことをやって、これらを「理性」によってまとめることにした。ヘーゲルが言う「理性」はこれまでのものと違って、欲望に対してだけでなく、神に対しても優位に立つはずのものだった。それがヘーゲル左派と呼ばれるもので、これを批判的に受け継いだのがマルクスってわけ。あ、絶対精神なんてのは、ちょっとわきに置いといて。
 そして「理性」によって欲望をなんとかすべく革命まで起こしたけれど、結局ソ連は崩壊して、やっぱ そっち方面は無理があるんじゃないか、てことになっちゃった。
 そのちょっと前くらい、たぶん、新自由主義が登場し、哲学でポストモダンが口にされ始めた頃だと思うけど、「もういっそ欲望するものだけを認めちゃえ。欲望されるものの方は考えなくてもいいじゃん」みたいな流れになってきた。
 ジャック・ラカンは対象aはからっぽでもシェーマが機能することにしたし、ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』で、欲望されるものなんてのは真空であり欠如であり、それでいて何ものかをも生み出し破壊する強度を孕むものだとして『器官なき身体』なんて名付けたりした。
 もう、実体を持つものは「欲望するもの」だけであり、「欲望されるもの」については考えても無駄だから考えないことにしよーぜ、てわけ。
 そして、資本主義は、このあたりから「実力」を遠慮なくむきだしにできるようになってきた。この時点で、将来ソ連が崩壊することは決ってたようなもんだ。

アンチ・オイディプス  
 んで、到る現代なわけだけど、どうも「欲望するもの」──いやここからは単に欲望と呼ぼう、世間じゃすっかりイコールになってるし──欲望だけが単体で動くようになると、どうもおかしいというか、社会に対して破壊的になってきてしまったのだ。ぶっちゃけ「狂気」を孕むようになってきたわけ。
 だってもう、神も理性も、誰も「お守り」してくんないんだもん。
 そんな風にして、リアルであるはずの欲望が、狂気を孕んだ「妄想」になってきてしまった。QEだの異次元緩和だの、二十世紀だったら狂気の沙汰と呼ばれただろう。
 さあどうしよう。経済学はそろそろ「欲望されるもの」について、もう一度考えなくちゃならなくなってきてんじゃないのか。パレート最適がどうしたとか言ってる場合じゃない。 ニヒリズムを徹底しても、大いなる正午@ニーチェはやってこなかったしね。
 そんな動揺が、今回のノーベル経済学賞にも現れてるような気がする。
 だけど今のところ、問題をなんとかできるものはなーんにも出て来てないように思う。
 とりあえずこのまま「行けるとこまで行っちゃおう」てのが、今の世界を覆う「気分」みたいだ。どうなることやら。
 

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