2013年11月9日土曜日
今こそ『アンチ・オイディプス』を読んだらいいのに
アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)
すいません。昨日「とりあえず〆」とか言っときながら、続きみたいなことを書いてしまいます。ほんとすいません。
えー、それでは気を取り直して、『アンチ・オイディプス』について。これ、世間がポストモダンでニューアカで、スキゾとかパラノとかわけもわからず騒いでいた頃、とってももてはやされた本です。
そして、浅田彰に乗せられた人たちが一生懸命読んでは、三十ページともたずに挫折するという、源氏物語の須磨帰りじゃないけど、そんなふうな悲劇が独身男性の部屋でひっそりと繰返されておりました。
なんでそんなことになったかというと、みなさん生真面目に最初の一ページから丁寧に読もうとしたからですね。確かガタリじゃなくてドゥルーズの方だったと思いますが、この本について 「哲学の知識はまったく必要ないし、どこからどのように読んでもいい。そういう風に書いた」と語っていました。なので、これは必ずしも完全に読破されるように書かれているわけじゃありません。でもマジメな日本の読者は真正面からぶつかってどんどん落ちこぼれてしてしまったわけです。
こういうとき、フランス人は根が不真面目なんでラクですね。そういえばフランス人のほとんどは推理小説を後から読む、てのは本当なんでしょうか?
さて、この本がどのように書かれているかというと、とにかく同じことを何回も何回も別な言い方で繰返す、というやり方です。つまり、この本が『差異と反復』を体現してるわけ。
差異と反復〈上〉 (河出文庫)
差異と反復〈下〉 (河出文庫)
どんなふうに繰返しているかというと、同じ内容を哲学的に書き次に人類学的に書き、歴史学的に書き心理学的に書き、精神分析学的に書き生物学的に書き、さらには数学的に書いたりしてるわけで、つまり哲学の素養が無くてもどれかが判るなら、その部分だけつまんで読んでって了解できるようになってるんですね。
なので、とりあえず「判る部分だけつまんで読んでけばいい」のです。
で、どういうことが書かれているかというと、精神分裂病とかつて呼ばれた統合失調症は、資本主義の本質の現れだってことです。別におかーさんと結婚したくておとーさんを殺したい、てのが全部の元じゃないよ、てわけ。あー、でもこんな単純に書くと実証主義っぽいけど、実証主義じゃ全然ありませんのでご安心を。
前回、欲望についてあれやこれや書きました。で、「欲望するもの」と「欲望されるもの」があるけど、これらはまったく非対称的なものだとしました。つまりAと非AとかAとA'みたいなものじゃないんです。だから、自分のこの表記もおかしいですね。非対称的なら全然違うように書かなくちゃなんない。でもどうすればいいのかよくわかんない。
その辺をジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、前者を「欲望する機械」、後者を「器官なき身体」と呼ぶようにしました。あ、今これ、ぶっちゃけたこと書いてるんで、本当はもっと突っ込まなきゃならないんだけど、とりあえずこのくらいで勘弁して。お願い。
欲望が非対称性をもつことはヘーゲルも感づいてたんだけど、弁証法的にそれらをまとめようとすると、それまでどんなにそれぞれを非対称的に語っていたとしても、まとめる瞬間に対称的なものになってしまうんですね。
なので、欲望に関する限り、弁証法てのはあんまり役に立たないことが判ってきました。と同時に、弁証法で止揚されてきた「理性」の価値が暴落してしまいました。
するってえと、欲望だけが実体を持つようにして語られることが多くなってまいりまして、その端的な現れがフロイトの精神分析学です。もういいからあるんだかないんだかわかんない「欲望されるもの」のことなんか考えないようにしようぜ。みんな欲望のトリコなんだから、ぶっちゃけそれでいいじゃん、と。
いや、そこで止まっちゃよくないだろ、というわけで『アンチ・オイディプス』が上梓されました。副題に「資本主義と分裂症」とある通り、理性のタガがはずれた欲望(この本では「欲望する機械」)は、「欲望されるもの」(この本では「器官なき身体」)によって受け止められることがなければ、その振る舞いが分裂症みたくなってしまう。つまりは、資本主義の欲望(する機械)が幼児のボール遊びのごとくあっちゃこっちゃふっ飛ぶと、資本主義社会の在り方がまるで分裂症そっくりになってくるわけです。どんな具合になってきてるかは、昨日までつらつら書いた通り。
これはむしろ、リーマン・ショック以降むき出しになった資本主義の欲望を分析するのにちょうど良い本だといえます。あ、欲望する機械か。まあとにかく、変な経済学の本を読んだり、白熱だか熱血だかの教室よりずっとおすすめなのであります。弁証法が無効になった今、「欲望する機械」と「器官なき身体」をどのように扱うべきか、いや、個々人がどのようにそれらを受け入れるべきか、などが書かれているからです。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿