2013年11月3日日曜日

リアルという名の妄想続き

 前回の続き。

 元々経済成長ってのは、国家とか社会がどのくらい発展したのか、を量る目安だったはずだ。
 それがいつの間にやら「目標」に格上げされて、何が起こったかというと格差の拡大ってやつ。なんで格差が問題なのか。いつの時代でもどこの国でも格差はあったじゃないか。うんそうだね。でもその背後にある問題をうんぬんするには、格差という形で現れてくる事柄を観察しておくのが一番効率が良かったんだ。
 経済成長率を目標とすることになった時、とっても頭のいい誰かさんが、あることに気づいた。
「これって、金持ちをどんどん金持ちにして、貧乏人をどんどん貧乏にすれば、同じようにに数字がのばせるよな」

 そう、国家も社会もまるっきり発展しなくても、格差をどんどん広げてやることで経済成長率を延ばすことができた。なんつーか、カンニングしてるのと似たようなもんだね。こういうごまかしが眼に見える形であらわれたのが、格差ってやつだった。
 でも大勢の人は「なーんか変だなー」とは感じつつも、「お金持ちは努力した。貧乏人は怠けてた。怠けてたやつが悪いんだ」という、学級会で掃除当番の罰を決めるみたいな子供っぽい理屈に流されちゃった。

 社会は発展したけど経済は成長しない、てことはまずありえない。
 でも、経済は数字で見るとがんがん成長してるのに、社会の方はボロボロなんてのはありえる。イギリス植民地下のインドはどんどん経済成長したし、対英貿易は黒字だった。でも社会のほとんどは貧困に喘いでた。

 昔々、マクロ経済学てものがあった。いや、今もあるけど昔のとはちょっと違ってる。ロバート・ルーカスって経済学者が、世に言う「ルーカス批判」を繰り広げてから、理想的な経済モデルを唱えるタイプのマクロ経済学はその役割を終えた。そしてルーカスは一九九五年にノーベル賞をもらって、賞金の半分を別れた奥さんに奪われた。いや、それはどうでもいい。しかし、おそらく、たぶん、ここらへんから経済学というものは、リアルな欲望というものによりそうことになった。
  今「リアルな欲望」と書いたけど、欲望ってものは自己に対してはリアルだけど、他に対しては唐突な現れでしかないんだよね。ブタにとって「ブタ肉食べたーい」という欲望は、受け入れがたいものだ。受け入れられないものは、それ自身にとって「リアル」ではなくなる。うそ、なに、オレ食われちゃうの?ねえこれ夢でしょ?誰か夢だと言って!、てな感じ。
 だから、「お金儲けしたーい」という欲望は、そのお金を他人から吸い上げる形で行うなら、他人に対して受け入れやすいようにフィクショナルな形をとらざるを得なくなる。
 そしてその欲望を肯定する経済学は、リアルであればあるほど、フィクショナルな現実を謳い上げることとなる。いや、別にいいけどね。ぐるっとまわって元のマクロ経済学に戻っちゃうようなもんだし。でも自覚くらいはして欲しいよなー、てこと。

 で、また次回に続く。すんません。
 あと、面倒なんでいちいち断らなかったけど、上記であれこれ言ってる経済学は、主に新自由主義方面のやつなんで。一応。



The Crisis of Vision in Modern Economic Thought

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