2013年11月2日土曜日

リアルという名の妄想

 まず、ちょっと引用から。

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もう経済成長はいらないとか、お金だけがだいじなのではない、とかを他人に対して(それはたとえば「日本は」とか「人々は」とか「先進国は」といった表現 になることも多い)口走る連中は、みんな衣食足りているどころか飽食している人々だということ。そしてその人々が、そのだいじでないはずのお金を手放そう としたりすることはおそらくほとんどないということ。
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 これはとある経済を専門にしている人のブログからの引用。別にこの人個人に怨みがあるわけじゃないのでリンクとかはしない。ただ、こういうもの言いに、いわゆる「新自由主義」を標榜する経済の専門家の方々の「意識」 ってのが、よく現れているのでちょっと転載させていただいた。

 でさ、「もう経済成長はいらない」とか「お金だけがだいじなのではない」とか、そういうこと口にする「飽食している人々」って、誰?自分が知る限りでは、「飽食している人々」ほど、経済成長の重要性を訴え、金銭の価値を称揚してやまないんだけど。どうやらこのお方の住まうパラレルワールドでは、お金持ちはみんな高徳の人士で、「お金なんか大したもんじゃないよー。はっはっは」な感じの人たちらしい。ねえ、それってどこのファンタジーワールド?少なくとも現代の日本じゃないよね。
 こういうありもしない現実を言い立ててはリアリストを気取り、「やっぱり経済成長しないと!経済成長こそがすべて!経済成長こそが魔法の杖!経済成長こそがドラえもんのポッケ!」みたいなこと言われても、「はーそーですかー、そりゃどーも」としか返事のしようがない。
 なんだろう、なんかカルト信者の物言いに近いものを感じる。変に理屈が込み入ってるとこなんかそっくり。
 そりゃー世の中お金で動いてるから、そういうのも大事なのかもな、って気はするけどさ。もともと経済成長ってのは社会がいかに発展しているかの「指標」であって、それ自体を「目標」にするもんじゃないでしょ。
 どうも経済万能主義な方々の眼に映る「リアル」は、下々のものたちが普段の生活で感じ取る現実とは別物らしい。ああ、経済学とやらが解ればそういう「リアル」が見えるようになる、と。なんかそれこそいっそうカルト臭い。

 以前本宅の方で取り上げた新自由主義の本家ミルトン・フリードマン についてもそれはいえる。
 くりかえしになっちゃうけど、フリードマンは主著『資本主義と自由 』において、「差別の問題は経済をどんどん自由にすれば解決しちゃうぴょん!」なんて書いているんだよね。あ、ぴょんは別に意味なし。雰囲気を明るくするためにつけてみた。
 えっとそれで、フリードマンはこの本の中で

「すでに見てきたように、自由市場ってのは関係ないもろもろから経済的な要素を切り出すんだ。前にもちょこっと触れたけど、パンを買う人は小麦を白人が 作ったか黒人が作ったかなんて気にしない。キリスト教かユダヤ教徒かなんてのも同様。そんなふうに考えていくと、できるだけ効率的に作んなきゃなんない生産者は、人を雇うのに肌の色だの宗教だのにかまってらんないよね」

 てなことを申されてる。で、これを引用したブロガーから「ジム・クロウ法 (アメリカの差別を正当化する法律。ほんの五十年ほど前まであった)が有効だった頃のシカゴにいたんだから、もっとちゃんと現実を見たらいいのに」という主旨のツッコミをいれられてる。
 ちょっとネットで政治的な言説にふれてみりゃ解るけど、差別したがる連中ってのは、自分のパソコンを自分が差別してる人間が作ったものだとしても、ぜーんぜん意に介さないよね。 つまり上記で引用したフリードマンの指摘ってのは、現実の差別問題にまったく触れたことのない、それこそ「パンがなければケーキをお食べ」的な発言に過ぎないんだと判る。
 でもさ、恐ろしいことに、今もこれを真に受けてる人が大勢いたりするわけで……ひぃぃぃ!

 人間の「お金がほしいよう」な欲望を単純に肯定しさえすれば、そこから「リアル」な論理が紡ぎ出されてくるとか、そんなことは妄想でしかないってことは、上記のような例からも明白だと思う。
 変だよね、欲望はリアルなもののはずなのに。

 で、また次回に続く。すんません。


 
カイジ「命より重い!」お金の話

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