2014年7月23日水曜日

【とりあえず途中経過編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本主義』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

Capital in the Twenty-First Century
そろそろ一章が読み終わるんだけど……我ながら遅いなあ。このくらい素直な英語なら、もっと早く読んでしかるべきなんだが。てか、イントロに比べて本編が結構退屈なんだよね。しょーがないっちゃしょーがないんだけど。
 しっかし、こんなけっこう専門的な本がベストセラーになるなんて、やっぱアメリカってすごいな、と評価を改めていたら、ウォール・ストリート・ジャーナルにこんなエッセイが載った。

The Summer's Most Unread Book Is…http://online.wsj.com/articles/the-summers-most-unread-book-is-1404417569



 えーっと、Kindleはお客が買った電子書籍をどの辺まで読んだか、てのがわかるようになっていて(the Hawking Indexと呼ぶそうだ)、それによるとピケティの本はだいたい平均2.4%、二六ページくらいだから、イントロくらいまでしか読まれていないんだそうだ。やれやれ。
 まあ、あちらの書物の「書き方」として、最初のイントロダクションで著者が言いたい主張をばっちり述べておく、というのがあるんで、イントロだけ読んでもある程度読んだ振りができちゃうんだよね。日本の本だと後半三分の二くらいの辺りにやっと書いてあったりするんだけど、洋書はそれが最初に来ちゃう。だからこういうお堅い本でも、ちょっと評判が立つと、ベーグルみたいにぽんぽん売れちまうってわけだ。

 まあそれはともかく、途中ではあるけれど私的な感想をちょっと述べておくと、これはロールズの『正義論』とあわせて読まにゃならんな、と思う。
 それから、ヘーゲルの『精神現象学』……まではちょっといかないんだけど、コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』でもって、コジェーヴ流の「主人と奴隷の弁証法」を、もういっぺんさらっとく必要があるんじゃないかなという気がしないでもなくもないような。
 いやー、だってもう「主奴弁」なんて過去のもんだよなあ、なーんて、なんとなく思ってたもんで。
だけども、こんな記事とか目にしちゃうとねえ……

RESPECT
http://stumblingandmumbling.typepad.com/stumbling_and_mumbling/2013/12/respect.html

 富の格差が固定化され、それがどのような現象を生み出しつつあるか、ということについて書いてるんだけど、

>One way in which CEOs justify their power is by claiming the status of heroes,of brave, risk-taking leaders rather than rent-seeking apparatchiks. They therefore claim (and get) excessive respect.

(CEOとやらが自分らのゴリ押しを正当化するのは、小役人みたいにおこぼれにあずからずに自らリスクをとった、という勇気あるヒーローのステータスによるものだと言い張る。それによって過剰な尊敬を求める(で、されちゃう))

>The successful underestimate the extent to which they owe their wealth to luck rather than skill, which leads them to demand more respect than is their due, and to disrespect others.

(勝ち組は自分の能力よりも相続財産に恵まれただけだってことを認めたがらない。なので、自分らがやったこと以上に尊敬されたがり、そのぶん他を見下す。)

 思い当たる節のある人も多いと思うけど、アメリカでもこういうのは常態になりつつあるようだ。

 で、最初に戻って、ピケティの本の冒頭にはこうある。

”Social distinctions can be based only on common utility."
——Declaration of the Rights of Man and the Citizen, article 1,1789

  これは一番最初のフランスの「人権宣言」の一部で、のちに削除された部分だ。
 「身分は市民に認められたときにのみ存在しうる」と自分的には訳したい。Social distinctionsって、なんか他の人の訳を見ると、「社会差別」とか書かれててへにょへにょしちゃうんだけど、これはやはり時代背景からしてずばり「身分」じゃないかなあ。
 まあそれはともかく、この「宣言」がなされたとき、「身分」が上の方にあったのは貴族と呼ばれた人たちだ。
 貴族というものがなんでエラかったかというと、ご先祖様がエラかったからだ。
 そのご先祖のどこがエラいかというと、「命をかけて戦った」からだ。
 で、そういうストーリーをぶった切ったのが革命というものだったんだけど、どうやらその「ストーリー」が別な形でよみがえろうとしてるらしい。太古に封じられた魔神のごとく。
 魔神を復活させる呪文は、risk-takingてやつ。
 とにかく経済的な投資、いや投機によって、「リスクをとるrisk-taking」ことは、「命をかけて戦う」ことに等しい、というようなニュアンスでもって、そこら中で言いふらすやつがいるんだよね。「リスクをとらないやつはクズ」みたいな感じで。
 こういう古臭ーい「ストーリー」が蘇ってくるもんだから、こっちも古臭ーい伝説のエクスカリバーならぬ、「主人と奴隷の弁証法」をもういっぺん引っ張り出さにゃならんかもな、と。

 というわけで、とっとと読んでしまいたいけど、なかなかはかどらないんで途中経過を報告してみた。
 またなんか考えるところがあったら書いてみたいな、と思う。(このエントリー、どのくらいの人が最後まで読んでくれたのかなあ……)

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以下、続いて書かれたエントリーのリンク集。
読み進むにつれて触発され、「財産」が「世襲」される時に経済的な事象を越えた振る舞いをする、ということについて書こうと思いました。が、あまりに大きなテーマだったので途中で切り上げました。また勉強しなおして、取り組みたいと思います。

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