2014年7月30日水曜日

無しともいへぬ花かげの鬼/もしくは応仁元年九月十八日桃華坊文庫焼亡スのつづきというか

『修羅』収録

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「みなみな、かねて申しつけたとほり、この桃華房の討入に古市ものの血筋を賭けよ。この庫、よのつねの庫ではないぞ。つねならば、金帛をこそねらはう。金帛、しひてここにもとめるな。庫にみちた世世の舊記は、もつてこの國の史を編むに足るといひつたへる。舊記、なにものぞ。代代の公卿どもが書きちらした文反故の山よ。暗愚時には知らずして、老獪ときには知りながら、曲をもつて直としたもの、あやまりを掏りかへてまこととしたもの、さだめて多きに居るであらう。このほしいままの筆の跡をさかのぼつて、みだりに國のみなもとをさぐり、家の來歴を決めつけて、枉げて正史の杭を打たうとする。いつはり、ここにはじまつたぞ。いつはりの毒のながれるところ、つひに古市ものの血筋を犯して、これをばけがした。京と古市と、へだたる濠の深さを見よ。げに、文反故の山にこそ惡鬼は棲む。今この惡鬼を討て。舊記祕卷、みなほろぼすべし。いふところの史書はことごとく投げ捨てよ。史を書かば、まさに今より書け。かの庫、公卿の手にとどめるな。また足輕の手にもわたすな。こころあつて、これをほろぼすものは、わが一黨のほかにはないぞ。今こそ、よきをりぢや。このをりをのがすな。」
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 のっけから引用ですんません。これは石川淳 の短編小説『修羅』で、主人公(だと思うんだけど、石川淳の小説って主人公ってのが基本的にいないみたいなんだよね)胡摩のセリフ。いつも字や仮名遣いは直すんだけど、今回は手間を惜しまずやってみた。でも、どうしても旧字の出てこない漢字があって不完全だけど。ことえり、まだまだやね。
 これを喋くってる胡摩てのは元お姫様なんだが、応仁の乱の始めに逃亡して、一休さんに出会ったりとかいろいろあって、悪党の頭目になっているという設定。
 この胡摩の演説の後に、おそらくは日本史上最大の焚書が行われる。
 胡摩がのたまってるのは、歴史なんか所詮強者(ここでは公卿)のたわごと、全部焼いてここから新たな歴史を始めよう、てなことかな。革命ッすかー?

 焚書ってのは、おおむね権力者の意思によって行われるんだけど、この桃華房文庫焼討ちはそうした背景が希薄で、乱の始めの方で足軽の類いの狼藉により焼かれたらしい。この小説は、なんでそんなことになったのか、てのを応仁の乱の頃の一人の女性の生き様に託して書き上げた、というところか。だって、貴重な文書ってのは高く売れるのに、それをむざむざ焼いてしまうとは、悪党どもの仕業にしてはおかしいからね。悪党ってのは、第一にがめついもんだし。
 ねえ知ってる?公家・大名の家が火事になると、真っ先に持ち出されたのは家宝の名刀の類いじゃなくて、「本」だったんだよ。だから、文盲の悪党、足軽の類いとはいえ、それらが高く売れることはわかっていたはず。なのに、景気良く燃やしたのは何があったんだろうな、という疑問がこの小説の背景になっている。

 日本てのは、本当によく古文書の類いが保存されていて、ちょっと調べるとなんぼでも出てくるんだそうだ。本の値打ちが高かったので、「焚書」なんて滅多にされなかったせいだろう。それだけにこの桃華房文庫焼討ちが惜しまれる。

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)

 以上、一昨年に本宅で書いたエントリーのつづき。昨日エントリー丸ごと再録とか横着したときに、ふと思い出してしまったので。当時は次の日にでもつづきを、と思ってたのにけろっと忘れていた。我ながら頭痛がイタい。

(本宅のエントリーをこちらに再録し直しました)
 

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