2014年7月5日土曜日

吾輩は無名であることを忘れないでいたいと思うのつづき

つづきと言いつつ、まずは特定ヒミツの画像。なんというか、「他人事」や「表す」にルビとか、水を飲む間合いの指定とか、なんも考えずにただ読めばいいようになってる。これが総理の読み上げ原稿のスタンダードなのだろうか。最近ほっぺの下がり具合がいっこく堂の人形っぽくなってきた総理だが、後にくっついてこの原稿書いてんのはどこのどちら様だろうか。


 かように物事には裏側があり、時折水面に浮かぶサメの背びれのように、その姿形から海中の有様を想像せざるを得ない。
 がしかし、この社会を動かす底の底にひそむリヴァイアサンだか ビヒモスだかは、皆がその姿を目にし、皆がその息吹をかぎ、そこ声を耳にしているというのに、誰もその存在を意識することがない。

 などとドラマチックに書き出してしまったが、それはごく普通の人がごく普通に、トーストにマーガリンをぬるのと同じくらい当たり前に、普段から触れていることなのだ。いや「俺はバター派だ」とかの突っ込みは無しで。
 それは、「もう、うんざり」という言葉で表現するのが、一番ぴったり来るように思う。英語だとsicknessって感じかな。
 個々人の意識のその底の無意識すらも届かぬ暗渠にありつつ、その流れは確実に社会を変貌させてゆく。もし流れに逆らえば、ろくでもない「しっぺ返し」が待っている。
「うんざり」とはそういう意識以前の感覚だ。
 幕末期、もう武士にはうんざりだった。それは武士自身すらそうだった。
 昭和になって、もう政治家にはうんざりした。そして軍人がえらそうにするようになった。
 戦後、もう戦争はうんざりだった。なのでずっと戦争に関わることを避けた。憲法九条があったからだけではない。

 この怪獣「うんざり」を上手く調教できれば怖いもの無しだ。社会を思うように操ることができる。
 だが現実には、マスコミを運用してデマまで流して原発事故の責任をすべて菅直人に押し付け、「うんざり」を反原発側に向けようとしたが、必死の努力も虚しくみんな原発には「うんざり」したままだ。論理的に原発を推進しようとしている人ですら、ともすると「うんざり」しているのが顔に表れてしまうくらいだ。
 その「うんざり」は、ともすると原発事故について忘却するベクトルを持ったが、推進派が逆にそのベクトルを打ち消してくれた。結局それを持ち出されれば、まず「うんざり」が先に立ってしまうのだ。理屈ではどうにもならないほどに。
 結局日本は、初めて原発抜きの夏を迎える。この部分だけを見るなら、脱原発先進国だ。政権はあからさまに再稼働へ舵を切っているのに。

 それ以前、もう何十年も前から、「憲法九条」に怪獣「うんざり」の鼻面を向けようとしてきたが、結局はこじつけのゴリ押しの反則技で「解釈」とやらをするだけにとどまった。これ、つまるところ「改憲は無理」と白旗を揚げたようなもんだが、道理を引っ込めたツケは近いうちに払うことになるだろう。
 ただ、ツケを払うのはホオ袋ぶるぶる総理ではなく、国民の方になる。そのとき、また改めて、「うんざり」することが起きることだろう。考えただけでうんざりするが。

 この「うんざり」がうろつく姿を感じるためにも、自分が凡俗であることの自覚を捨ててはならない、と思う。それは「絶対精神」だの「暗黙知」だのといったような、社会から乖離した視線から存在を知りうるものではなく、ごく普通の暮らしをすることでしか、感知し得ないからだ。

 さて、最後におまけで全然別な話だけど、本当に前回から続く話。
 『ノラや』という随筆(?)がある。老境にある内田百閒が、ふと家にいついた野良猫がまたいなくなり、いたときは大してかわいがってもいなかったのに、その後何年も何年もずっと探しまわる話。
 百閒は実際にネコ探しの広告を三度も打った。
  


そして、右の音声はまだネコを飼う前のものだが、聞き手の高橋義孝(独文学者)はこの数年後に、夜中に酔っぱらって「お宅の探してるネコはもう三味線になってますよ」と百閒の家に電話したりする。
 このエピソードは随筆にも登場するが、永年犯人が謎のままだった。判明したのは2011年になってから。いたずらを告白する高橋氏の書簡が発見されたのだ。

 ノラは見つからないまま、百閒は死んだ。

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