2014年7月4日金曜日

吾輩は無名であることを忘れないでいたいと思う

    夜、ネコが消えた。
 もう数年飼っている黒猫である。
 ふとドアから出たまま、帰ってこなかった。
 それはごくありふれた日常の出来事が、まるで違うビデオテープにいきなりつながってしまったかのように、ノーカットでまったく別な物語が始まったかのように思われた。 
 
 次の朝は梅雨の晴れ間で暑くもなく寒くもなく、玄関から出るとここ数日の雨で洗われた空気は冷えて肌に気持ちよく、まるで、子供の頃にかき氷機の側で氷のしぶきを浴びたときのような心地さえした。
 でも、ネコは消えたままだ。
 朝刊では集団的自衛権が閣議決定されたことが、大きな活字で騒がれていた。きっとテレビをつければ、ニュースでも硬軟賛否とりまぜた報道に触れることができるだろう。
 とはいえ、ネコはまだ消えたままだった。 


    報道の内容が、国家の重要な問題であることは、言われなくても分かっていた。
 と同時に、私にとって今はネコがいないことが重要なのだ、ということもまた事実なのだった。
 こうした時、自らがまったくの凡俗の類いであることをひしひしと感じる。
 結局、両手の届く範囲がベストであることが、自分にとっては何よりも重要だ、ということだ。
 なんというエゴイスト。

    このようなエゴは、凡庸な多くの人が共通して有しているものだ。そして、そのことを直裁に語ることを、出来るだけ避けようとしていることも共通している。
 血なまぐさいニュースを耳にしたすぐあとで、晩ご飯のメニューを考えたり、クリーニング店に服をとりにいくことを忘れないように気をつけたり、そろそろ車検が近いからまた出費を抑えようと心に決めたり、そのような心の動きは、誰もがそれをしながら誰もが口の端にのぼらせることはない。多くの凡庸なる人々にとって、海の向こうで戦争が始まったとしても、ディズニーのeチケットほどの価値もないのだ。

 このような「凡庸」な感覚を否定しようとは思わない。
 むしろ大切にしたいと思っている。
 それについては、また次回から述べていきたい。

なお、ネコは昨晩他家の物入れに隠れているとことを捕獲した。

しかし、消えていた三日間のことを、今後忘れることはないだろう。




0 件のコメント:

コメントを投稿