2014年7月29日火曜日

再録『今さらながら「なぜ人を殺してはいけないの?」という青臭い質問にいい歳した大人たちがまともに答えられなかったことについてのメモ』

 以前のエントリーの再録。
 昔本宅の方で書いたときはまったく時期外れというか、夏場に汁粉を出すような感じだったが、最近また妙な事件が起きて、またぞろ同じことを言い出す連中を見かけたので、もう一度そのまんま載せておく。
 今ならもうちょっと違った書き方をするかな、と思うけど、それはまた別な機会に。



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 あれはもう10年以上前のことになるのか、「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いがどこからかわき上がり、いい大人たちがなんだかへどもどしたことしか言えないということがあった。「常識で考えろ」とか「自分が殺されたらイヤだろ?」とか「いや、本当は殺してもいいんだけどね……」という開き直りとか「そんなこと訊くガキはぶん殴れ」とキレたり(福田和也氏がそうだったと記憶してる)とか、名の知れた人が不意をうたれたように硬直した返答ばかりするのが面白がられたのか、ちょっとブームっぽくなって雑誌で小さな特集が組まれたこともあった。
 「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いに返答する必要はない、と言う人もいたがそれ以上は沈黙したままだったと思う。目に入る範囲では。
 確かに「返答する必要はない」が、なぜそのような問いがかりそめにも「有効性」を帯びて流通したのかは考えておく必要がある。
 「なぜ人を殺してはいけないの?」という疑問を持つ人、もしくはその問いを「有効」なものと考える人は、おそらく身近に「人を殺してもいい」と許可する何かを感じている。
 「何か」とはなにか。
 それはおそらく「生産」であろうと考える。

 それでは、生産とはなにか。
 「人間の意志により世界を作り替えていく行為」と高尚なことを言っても、リアルなものは見えてこない。そう、「生産」が好きな人は「リアル」なことが大好きだ。「世界を作り替える」というのは、「自分のために他から奪う」という意味合いもある、と表現すればとりあえずリアルだろうか。大地から、植物から、動物から、そして自分以外の「他人」から奪う。それはとても生産的だ。
 略奪と生産は別だ、とわかる人もいるが、わからない人もいる。大昔はわからなかった。
 「生産性」が一番高いのは何か。それは誰かが貯め込んだ生産財を横からまるごといただくことだ。その時その「誰か」を殺しておけば、あとで復讐される心配もなくてパーフェクト。まあ、こんな感じ。
 生産と暴力は密接に関わっていた。

 さて、まるで昔話のように過去形で書いてしまったが、実は今でも「わかってない」人たちはたくさんいて、「わかってない」のに「わかってる」ように語りまくっている。
 「とにかく生産性をアップさせろ」
 「金を儲けることだけを考えろ」
  そのベクトルの先には、略奪を良しとする暴力性こそが究極の「生産」である、と肯定する思考がある。それを「生産」と呼ぶことに躊躇しない態度がある。
 しかし、誰もそのことをはっきりとは言わない。申し合わせたように黙っている。
 そこでみんなが黙っていることについて口を開かせるために、冒頭の問いが生まれてきたのだろう。
 「なぜ人を殺してはいけないの?」
 この問いには続きがあるはずだ。
 「周りの人たちは『殺せ』って言ってるのに」

 だから生産的なことが好きな人は、おおむね軍隊が好きで、死刑が好きで、弱虫や怠け者や女や子供が大嫌いだ。
 もちろん、そんなことは生産でもなんでもない、ということもできるけど、21世紀の日本で日常的にでまわっている「生産」という単語は、ほとんどそういうベクトルで使われている。

 もう2千年以上も昔にブッダという人があらわれて、「生産」を一切否定してみせた。ブッダとその弟子たちはまったく働くことなく、施しだけを受けて生き、「生産」の外側にあるものを体現しようとした。
 しかし、その教えは喪われた。二度と蘇ることはないだろう。


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