2014年7月21日月曜日

なつやすみ

 子どもの頃、七月二十一日という日付は特別な輝きを持っていた。
 その日から夏休みが始まったからだ。今は「海の日」?あれは第三月曜日だっけ。今年はたまたま二十一日に重なった。

 ふと夏休みの記憶というものをたぐろうとしてみたが、大したものがない。
 毎日毎日扇風機の前に陣取って、ブタの蚊取り線香よろしくぽかんと口を開けていたような思い出しかない。

 田舎の祖父母の家に行って、床屋をやっていた叔父がおいていったマガジンやらサンデーやらをむさぼり読み(家ではマンガは禁じられていたので)、祖母が酒屋からダース単位で買っておいてくれるジュースやサイダーをがぶ飲みし(よく肥満児にならなかったもんだ)、もぎたてのトウモロコシやとりたてのスイカをぱくついていた。
 どこかしら旅行に行ったような気もするが、憶えているのは縁側に腰掛けてぼんやり蝉の声を聞いていたようなことばかりだ。
 毎日ヒマで仕方なかったが、あの当時「何にもなくてもヒマをつぶすコツ」というのを身につけたのかも知れない。

 夏休みといえば、私にとっては「予定」である。
 休みに入る前に、学校に「予定表」を作って提出させられた。
 といっても旅行の予定とかではない。「プールで二五m泳げるようになる」とか「絵日記を毎日つける」とかのたぐいだ。
 なんでこれが「予定」なのかよくわからないが、とにかく「予定」と呼ばれていた。
 自分がどんな「予定」を立てたのはかはまるっきり憶えていないが、はっきりしていることは、その「予定」を一度も成就しなかったことだ。
 まあ、それ以外の宿題は全部やってたんで、全然問題なかったけどね。問題集のたぐいは、最初の一日で片付けていた。
 そんな一夏の経験がたたったのかどうか、高校に上がってからというもの、休みの「予定を立てる」というのが、どうも苦手になって困ったものだった。たとえ遊びの予定でもだ。今はそんなこともないが、得意になったというほどでもない。妻には毎年のように怒られる。

 子どもの頃の夏の思い出に大したものがないのは、予定された思い出が心に残っていないからだろう。それが、たとえ家族で海に出かけたというものでも。
 思い出というのは、予定の外側にあるのだなあ、とこの歳になって思う。
 それが、まったくのガラクタであったとしても。




吉田拓郎 夏休み

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