「民」という字は、目を刺されて見えなくなった人からきている、という。
奴隷を盲目にして逃げ出せないようにした、古代中国の習俗からきている。
やがては、外部世界に対して盲目で、何の情報も得られないため、唯々諾々と支配される人々、という意味で「民」とされるようになった、とは後の解説。目を刺すという字義を見出した白川静氏は、「民」は神の徒隷として捧げられたものという。「臣」もほぼ同義で、こちらは目の明いている徒隷である。どちらも神に捧げられた、つまりは生贄にされたのだ。
奴隷を支配しやすいように盲目にしておく、というのは中国だけの専売特許ではない。
またヘロドトスをとりあげてしまうけど、『歴史』によればスキタイ人は奴隷を盲目にして管理したという。
「民」を本来の字義のまま盲目にしておきたい人たちは、国家の情報を隠し、民を無知蒙昧なままにしようと画策する。そうした動きの最たるものが、取沙汰されている『秘密保護法』というやつだ──と書いておけば天声人語っぽくまとまるわけだが、どうにもこれだけでは手応えが浅い。ゾンビに包丁で斬りつけた程度の感触だ。
もう少し、突っ込んで考えてみたい。
字通
スキタイ人が奴隷の目をつぶしたという話については、『歴史
』の註釈において「ヘロドトスがスキタイ語を解さないため、勘違いしたのではないか」と指摘されている。その後に続くエピソードと整合性が取れないからだ。
「民」の字が目を刺さして視力を害する形、とする白川静氏は、民は神の徒隷であると語るが、奴隷であるとはしていない。奴隷説は郭沫若
のものを引用しているだけだ。
ちょっと考えれば分かることだが、奴隷を盲目にしてしまったら、奴隷として使い物にならなくなってしまう。
もし奴隷の目を刺すことがあるとしたら、それは奴隷の目の周りに入れ墨をしたということではないだろうか。そうすれば、奴隷は逃げづらくなる。 入れ墨は「刺青」と書くように、「刺す」という言葉にその意味が含まれていることがある。「目」を「刺して」奴隷としたなら、それは入れ墨をほどこした形になるのではないか。
だいたいこの「奴隷の顔面に入れ墨をした」という知識は、白川静氏の著作から得たものである。たとえば「童」は顔面に入れ墨をした男の奴隷だ。上部の「立」が「辛」の略形で、「辛」は針で刺すとの意がある。女の奴隷の場合は「妾」
そして口の周りに入れ墨をする形が「言」だ。口の上の部分が「辛」の変化した形になっている。
この件について、別段に新たな註釈を加えようと言う意図はない。白川静氏はあくまで漢字の原義に忠実であっただけで、それ以外は後の解釈者の問題だからだ。
「民」を生贄でなく奴隷と解釈するなら、盲目ではなく刺青をされたもの、と考えた方が良くはないだろうか。
ここでむしろ問題に感じるのは、「奴隷の目をつぶす」ことを素直にそれとして受け取ってしまうこと。自らの奴隷性に対して「盲目」であることの方だ。
古代において、目の見えなくなったものは奴隷とはされず、むしろ奴隷からは廃棄された。使いものにならないからだ。そうした「廃棄されるもの」を対象として、奴隷と呼んで見下す視線が無自覚に存在しているように思う。「廃棄されるもの」とは、身体に障碍を負ったもの、老人、痴呆の類いである。こうした「使いものにならない」という基準により「廃棄されるもの」を決める思考法は、「自己奴隷化」とでも呼ぶべきものだ。
問題は、自らの奴隷性に盲目であるものが、他も同様に盲目にしようとしている、ということにあると思う。
本当の秘密はこの盲目性にこそあり、官僚なり政治家なりが懸命に隠そうとしているのはこれなのだ。
また、次回に続く。
歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)
歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)
歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)
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