2013年10月14日月曜日

どこの誰かは知らない人を誰かが知っていてもそこに正義があるわけではない(結局仮題のままだけどとりあえずおしまい)



 一九九二年、日本でインターネットが商用化された
 それ以前からだんだんに失われてきたものが、ここから加速度的に可及的速やかに失われていった。「失われた二十年」で失われたのは経済成長率だけじゃない。人々の間から「何か」が失われていった。「何か」だなんて思わせぶりに書いてしまったのは、本当は失われたんじゃなくて、人々が率先して投げ捨てたからだ。「凡庸」というやつを。



  インターネットで飛び交う情報は、おおむね「肉体」を持たない。その最後の刻印たる自らの「名前」すらも捨て去ったなら、匿名の誰かさんは肉体から解き放たれた自由を手にし、それと同時に不安にもさらされる。
「肉体」てのは、凡庸なものだ。イチローであろうとナオミ・キャンベルであろうとビル・ゲイツであろうと、肉体そのものはやがて老いさらばえ、死に至る。みんな同じ、すなわち「凡庸」ということ。
 たとえ仮想の空間であろうと、「凡庸」さを投げ捨てて別な存在になるなら、人々は互いを無条件に信用することはなくなり、やはり三人の囚人のごとくお互いを疑い、不安にさらされることになる。
「名前」すらも捨て去った人々が、互いを認めて一体感を持ちうるのは、「同じ考えを持ち」「同じことを言い」「同じ行動をする」ときだけだ。三人ともがいっせいに「白だ!」と叫ぶことでしか、その不安をぬぐい去ることはできない。
 不安を不安のまま受け入れることができればいいが、それがかなわない人は不安を一斉に排除しようとする。どのくらい排除するかというと、不安そのものだけでなく、不安を予感させるものや、不安を受け入れている人や、そういうものまで除こうとする。なんでかというと、不安には限りがないから。そして不安な人々は、他の人たちも不安にさせようとする。自分と同じように不安でなければ、「同じ考えを持ち」「同じことを言い」「同じ行動をする」ことができないからだ。
 そして不安が広がり、さらに先鋭化すればするほど、同じ考えを持ち」「同じことを言い」「同じ行動をする」ことの快楽が強まっていく。この快楽は、麻薬と同じように、習慣性を持ち、もっと刺激の強いものが求められていく傾向があるようだ。
 不安であればあるほど、それが解消される時の快楽は大きく、それがインターネットの魅力のひとつにもなっている。
 こうしたネットの性質が、差別の菌床となりやすことは自明のことと思う。

 本当はこんな結論なんかいやなんだけど、インターネットが存在し、その匿名性が必要とされる以上、こうした「不安に取り付かれた」 人たちの増殖と先鋭化はとどめようがないと思う。
「表現の自由」云々と新自由主義方面の人たちが口にしたりしてるようだが、ある程度の法規制は必要になってくるだろう。
 ネットの便利さを享受するなら、その負の側面を受け入れ、不安を自覚しなくてはならない。てか、これからは学校で教えなくちゃならんよね、もっと具体的に分かりやすく。

 何日にもわたって長々と書いてしまったけど、とりあえずはこれでおしまい。ほんとに終ったわけじゃないけど。

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