2013年10月4日金曜日
ないしょないしょのないしょのはなしは「どれいのヒミツ」おまけ
話を白川静氏に戻そう。それと、なんとなくつけてみたが、いちいち「氏」をつけてるとうっとうしいので、以後はずさせてもらう。別段軽んじているわけではないことはわかっていただけるかと思う。
白川静によれば、 文字というものは他民族を支配する必要から生まれたものだという。
これは、漢字というものを極限まで調べ抜いた上での、いわば直感として出て来たもののようだけど、まあその通りだと思う。
裏返してみれば、文字を持たない民族というのは、文明が遅れているというわけでなく、 他民族を侵略したり支配したりする必要を持たなかった、ということになる。
考えてみれば、英語のスペルが現在の形に固まってきたのは、大英帝国がその版図を広げつつある時だ。それまでのスペルは「だいたいあってればいい」ようなもので、シェイクスピア のサインが十数通りあるのもそのせいだという。
日本語だって、日清・日露戦争 あたりから現在の形になってきたと言える。言文一致 はもうちょい前だが、当時すでにそうした「外に出る」気分は国内に横溢していたことだろう。頓挫したとはいえ、征韓論 などもあったし。
江戸時代においては、漢文が素で読み書きできないと「文盲」の扱いだった。その基準だと、おそらく文盲率は八割近かっただろう。現代なら九割九分九厘九毛くらいだ。日本語なんてものはただの日常言語で、漢語に比べると劣るとされていたわけ。一部の国学者 を除いて、だいたいそんな認識だったようだ。
無文字文化には口承文芸 というものがある。
うろ憶えの知識で申し訳ないが、ある人類学者が百年近く前のとある部族における口承の歴史の記録をみつけ、長年月の間にどの程度変化したか、件の部族の口承者に確かめたことがあるという。驚いたことに、ほとんど一字一句違っていなかったそうだ。
「むしろ文字による記録の方が改竄の危険にさらされている」と、学者は語っていた。
そういえば、古代エジプトにおいて初めて文字が発明されたとき、ファラオは「これで人間は何も憶えないバカになってしまうだろう」と嘆いたという。まあ作り話 だろうけど、そういう面もないではないような気もしなくはないような。
どうやら文字というものは、罪深いものであるらしい。人間同様に。
それをまとめた「書物」というものの流通のどん詰まりにある古本屋というやつは、いっそう罪深いものなのかも知れない。あー、いかん気持ちが暗くなってきた。
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